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オナモミ亭 ~猫柳一番地~

くも膜下から回復中の父のことを綴る場。

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とらちゃんとヒロ~時代の波間と記憶の扉

【おきねこのヒロ 】を読んでくださってありがとうございました。
涙が枯れるという言葉は、その時知っていたのか・・・
なぜ5歳のくせにシェークスピアを読んでいたのか・・・
なんて余談をまとめた【開かれる、記憶の扉】も、よろしかったらどうぞ(*v.v)。
小憎らしい幼きわたしに、会ってやってくださいな。うふふ。


明らかに、わたしたち姉妹を「小さきもの」として慈しんでくれたとらちゃんは
いつもわたしたちの「小さなお兄さん」でした。
ままごとではいつも赤ちゃんの役をしてくれました。人形用の乳母車に乗ったり

 こんな風に布団で寝てくれたり。


それまで、三世代同居が当たり前だった日本の暮らしに変化が訪れ
「憧れのマイホーム」をたくさんの家族が手に入れ、移動したあの時代
たくさんのヒロととらちゃんが全国を彷徨い
たくさんの「小さなわたし」が、涙が枯れるまで泣いたことでしょう。

でもね、わたしたちは「猫ぐらいでそんなに泣くな!」
そう叱られることがありませんでした。
涙が枯れるまで、記憶を封印できるまで、泣いて怒ることが赦された。
わたしたちはきっと、当時のモノサシでは、とても幸せな子どもだったのです。

そのモノサシは、時代ごとに違う。
時代の狭間で零れる涙も、それぞれ。


久しぶりにあの記事を読み返し、新たに頂いたコメントに触れ
あの時、あの後、書かなかったいろいろなことを想い出しました。

あの記事を書いた後、母と話をしまして。
母の記憶の扉も、少しだけ、開いたのです。



とらちゃんとの別れの記憶を生んだあの引越しを
社宅であっても「憧れの核家族計画」だと、そうわたしは思い込んでいました。
両親が望んで埼玉の地へ引越したものと・・・でも、そうではなかったのです。


子を生さない嫁は「石女」と陰で呼ばれ、離縁も当たり前だったあの時代
なかなか子ができなかったことで嫁とも義姉とも思われていなかったこと。

ようやく子ができた・・・と同居をすることになったけれど
姉、わたし・・・と女が二人続き、ますます冷めた関係にあったこと。

長男の嫁として迎えられるのだ・・・と膨らんだ気持ちがぺちゃんこになったこと。
とらちゃんを家にあげたことで風当たりが強くなったこと。
三人目を身籠っていたのに、突如実家解体の話しがあったこと。
既に出来上がった新居は横浜で、最初からわたしたちのスペースはなかったこと。
当時の平公務員の月給では、とても近隣でのアパート暮らしは無理だったこと。
社宅の中で、すぐに入れる空きがあったのは、埼玉のあの場所だけだったこと。
末娘が「埼玉なんて遠くに」行くことに落胆した母方の祖父母が
がっくりと老け込み、わたしが5歳のあの一年に、相次いで亡くなったこと。



記憶を紐解いても、母は
義妹や姑である祖母のことを悪くは申しませんでした。
昔の人ですから。

わたしの記憶も、再び、開く。想い出す。

母は、高田馬場のあの家で、いつも肩身が狭そうだったことを。
同居していた叔父や叔母に遊んでもらった記憶が全くないことを。
わたしたち家族は、母の父である指物師の祖父が手入れをした二階で
間借り人のようにひっそりと暮らしていたことを。

お化粧も洋服も我慢して、当時は贅沢だった写真をよく撮ってくれた母でしたが
同居していた叔父や叔母と遊ぶ姿の写真は、一枚も、ない。
母は「何気ない日常の一瞬」を切り取るのが好きな人だったのに。

ワタシタチハ、アノヒトタチノ、カゾクデハ、ナカッタ。
残念ですが、これは紛れもない事実。
他人より遠い心の関係を、認めたくなかったわたしたち。
苛められるわけでも喧嘩をするわけでもなく
ただただ、全く受け入れてもらえなかった。
母方の親戚があまりにも仲良しだから、見つめる必要もなく
気づかないふりをしてきた事実。

とらちゃんとのお別れは、母にも父にもなんの権利もない「御家の事情」の・・・
そんな事情でとらちゃんは・・・とても哀しく。

でも、少しだけ、嬉しくてね。
天邪鬼なわたしも、過去の猫たちを手放さなかった話を聞いた時に
「嘘だ、お母さん、とらちゃんは捨てたくせに」とは何故か言えなかった
あのモヤモヤの答えが見つかったんです。

カゾクノダレモ、トラチャントノワカレヲ、ノゾンデハ、イナカッタ。
しばらくわたしのブログから「仲良しな親戚」の話が消えました。うふふ。
消化するのに、ちょい時間が必要だったんです。
嗚呼!なんてお人よしなの~わたしたちったら。
「仲良しで大好きな親戚」に、アノヒトタチまで入れてたなんて。
仲良しだと思い込もうとしてきたなんて、なんて莫迦なんでしょう。
モウイイヤ、タニンタニン。
そう思えたら、長年胸に痞えていたモヤモヤがスッキリしちゃったんです。
minichanさんには、足を向けて寝られません~。感謝。

我が家の救いは、父が母を全面的に脳天から好きだったことです。
実の親や弟妹の中では「しっかりせぇ!」と言いたくなるぐらいの父ですが
心の底から、父が、母の敵となったことは一度もありません。
すまないね、と声をかけたり、ありがとう、と呟いたり。
わたしの記憶ではそうですが、母の記憶でもそうでした。


全自動洗濯機も電子レンジも、炊飯ジャーさえ無かったあの時代
母は、嫁は、大変な大変なつとめでしたね。

「みんなそうだったのよ」と母は申します。
離婚を選んだひとは頑なまでに強くあらねばならなかったあの時代
耐えることの方が楽でもあったとも申します。

そうだったのでしょうか。
そうだった場合も、そうでなかった場合もあるでしょう。
時代の狭間と波間に流れたたくさんの涙は
わたしの想像の翼でも追いつくことができません。

当時の「常識」と「普通」の縛りは、今の比ではありませんでしたよね。
わたしがとらちゃんとの別れに流した涙と、枯れるまで泣いた涙と
比べものにならない量の涙が、たくさんの方の記憶の底に、眠っているはず。
流すこともできなかった涙が。

 物言わぬとらちゃんの心にも、きっと。


当時、母の姉兄夫婦は、全て都内に住まっておりました。
都電で、市電で、30分もすれば会えるところに、全員が住まっておりました。

八人兄弟の末っ子で、甘えっ子な面のある母
30代だった母
40を出たばかりの父

電話どころか、電線すらまだない
カルキで真っ白な水の出る新しい小さな町で
どんなに心細かったことでしょう。

戦中・戦後は福島に疎開しておりましたが、御茶ノ水で育ち神田で遊んだ母には
わたしたちが大喜びした畑も森も野原も、ただただ、暗く恐ろしく
戦中の記憶を呼び覚ますぐらいのものでしかなかったそうです。
父はいつも6時には都心の勤めから戻って参りました。

村から名ばかり町になった田舎の小さな病院で、初めて一人で迎えるお産。
母はどんなに心細かったことでしょう。
子どもの生めないわたしは、その苦労も恐怖も
本当の意味ではわかちあうことができないのが、残念です。


そこに、とらちゃんの温かい背中があったなら、と
一番思っていたのは、きっと、母。

まだ若かった、今のわたしよりも若かった、母。
夏休みの時期で、我が家が一番に引越してきてご近所さんもおらず
119世帯が未入居のがら空きの団地で、寂しかったであろう母。
戦時中も猫を手放さずに叱られ、鶏をしめたと言っては泣いた母。


自転車もバスもなく、預けるご近所さんもおらず
弟をお腹にいれた母がどうやって隣町の本屋まで行ったのか
その部分の記憶は、母も曖昧でした。

「お父さんが休みの時にみんなを見ててもらって、歩いて行ったんだろうねぇ」。

毎日がいっぱいいっぱいだったはず。
一日でも早く、娘たちに笑顔を取り戻したかったはず。


ようやく生まれた弟にはたくさんの病気があり
わたしたち姉妹もとても心配したものでしたが
あの夏は、母にとって、とても辛い夏だったろうと、今、思います。

そんな母に「死んじゃえ!」などと言ったわたしは
父にお尻をぶたれて当然だったのです。
「わたしは、悪くない」なんて思っている、とても悪い子だったのです。


賢いつもりでも、所詮、子どもは子ども。
幼きわたしの思い上がりが零させた、母の涙。



子どもの知らないことが、たくさんある。
本を幾ら読んでもわからないことが、たくさんある。
言葉にできるのは、記憶に残るのは、ほんの、一部。

そんなこんなを、大きくなりつつ、少しずつ理解し、思い知るのでした。




人は、大きくなっても、進化していくイキモノに違いない・・・と思って・・・反省する、ムスメ。



●記憶の扉、思考●
☆イラスト~「もずねこ」さん☆リンクバナーから是非どうぞ

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≪HN≫
onamomi*
猫5匹・亀2匹・夫のヒトシ(仮名)と東京の空の下で生息中。絶滅危惧職種のアド編集のへっぽこ妻。本業は孝行娘( ´艸`)

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●別館的本館●おじゃもみ亭●

くも膜下から復活中の父ナミヘイの介護が生活の軸の今日この頃。あれができるようになった~こんな表情が戻ってきた~と、毎日バシバシ写真を撮る…ついでに、オカシナ写真を、こちらに。

         

HNのオナモミは、子どもの頃から好きなもののひとつ。投げて、くっつけて遊ぶ、愉しいあのイガイガ。だがしかし。名乗ってから知る☆花言葉。≪怠け・頑固・粗暴≫…ヒドイヮ!ぶほー!

◆登場人物1:わたしの家族◆
リアルサザエさん一家でゴザイマス。
男性はナミヘイ頭で「バカモン」と威張るのが得意。女性はみんな財布を忘れて本人だけが愉快じゃないタイプ~。
・わたし…オナモミ(カツオ☆ポジ)
・夫…ヒトシ
・わたしの父…ナミヘイ
・わたしの母…フネモドキ
・わたしの姉…サザエモドキ(隊長)
・わたしの弟…タラオ
・姉の旦那さま…マスオ兄さん
・姉の息子(甥)…タラオ2号
・姉の娘(姪)…ワカメ
・ピスたちお…うちの五匹の猫
 ピ…ピッ君(ぴ助:オス)
 ス…スミちゃん(寿実太:オス)
 た…たーまん(本名:メス)
 ち…ちっ君(ちぃ作:オス)
 お…おちゃびん(ライオっさん:オス)
・銭がめーズ
 ゼニオ君&デコたん

◆登場人物2:ヒトシの実家の人々◆
夫のヒトシは、植木等さんの暢気なサラリーマンと寅さんの中間みたいなヤツで…ぶほほ。婚家はまさに≪寅屋の面々≫…ぶほほ。うーんと面白いことダケ、たまに。
・夫の父…ヒトシずパパ
・夫の母…ヒトシずママ
・夫の妹…サクラさん
・妹の旦那さん…ヒロシさん
・妹夫婦の双子の息子…ミツオーず

         

◆わたしの本棚でご紹介した本たち

母が長いこと子ども向けの図書活動をしておりました。新しいものが届く度に夢中で読んだ、愛しい愛しい本たち。何度も何度も読み、大人になってから買い求めたもの・いただいたものなどを、思い出話の中で少しずつご紹介しています。いろいろな訳者や版で出ている本は「この版がイチオシ!」とわたしが愛したものをチョイス。雰囲気が微妙に、そして絶妙に違うのです。是非、まずは図書館で借りてみてくださいな。
シアワセな時間を、お約束します。

         



         

◆お世話さまです(*v.v)。template◆
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≪CriCriさん≫
オナモミ、浮気をしない人( ´艸`) 時々CriCriさんの別作品でお着替え。アレンジしやすい素敵な仕様で、カスタマイズも愉しいのです( ´艸`)

◆お世話さまです(*v.v)。illustration◆
★もずねこさんのサイトへGO!!
≪もずねこさん≫
絵本のような優しい温もりとタッチにクラクラ☆どこか不条理な空気感もたまりません。カスタマイズに記事中に…モリモリ拝借中( ´艸`)
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≪バーナンの白黒さん≫
味のあるドコニモナイ絵。キリッと書けた時しか使いたくない素敵味。素材も素敵ですが、その他のページもとっても和めます。特に、蛇さんマークのところがとってもお気に入り( ´艸`)
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≪埼玉雲丹屋図案社さん≫
ほのぼのなのにインパクト大!吃驚なバランス感覚がたまらない。いつもいい出汁、出ています。
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≪アーキミックスさん≫
組合せを考えるだけで愉しくなれる多彩な素材、豊富なバリエーション。みィんな素敵にアーキミックス風味。
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ご存知、優しいタッチで大人気の老舗。背景拝借中♪
blogramこっそり会員( ´艸`)
忍者は静かなイイトコロ。そこがとってもスキナトコロ。だけど時々静かすぎるような気がして、こっそり参加。こっそり☆ず☆みーん、ランキングとかどうでもイイってこと( ´艸`) 自分がよく使う言葉が分析されて、オモシロイデス。

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でっきるっかな、でっきるっかな
はてはてほほー、はてふふー♪
よくワカリマセンが…
わたしは1.0が好き(そういう問題?)
わたしは見たことがないのです          携帯電話はもっぱら通話受信な生活
携帯で見ることを…全く…想定してなかったり…します…ゴメンナサ~~~イ( ´艸`)
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不条理・・・

この世の不条理を全て受け入れる必要は無いです。お袋が寝たきりになって「デイケア」等で、「猫が数匹いて衛生上良くない。」と言われましたがお袋自身「この子らを捨ててまで入所する気は無い!」と言ってくれました。田舎で「自給自足」する夢だって半分は「お荷物さま」達と暮す為なんですよね。受け入れなきゃ生けない不条理も在るけど、それを拒否して生きて行ける事も在る。今の私がそうだし。
  • FLAT SPIN さん |
  • 2008/10/10 (16:16) |
  • Edit |
  • 返信

Re:不条理・・・

母は末っ子「みんないい人」と思いたいタイプ、父は長男「本気だしたら可哀想」と思うタイプ・・・そんな二人の性格が、うまいことというかまずいことというかのバランスで絡まって、受け入れようとしすぎる傾向の我が三姉弟・・・ぶほー。わたしはわりとハッキリしてる~と思ってたんですが、灯台元暗し~でした。

>この世の不条理を全て受け入れる必要は無いです。
>受け入れなきゃ生けない不条理も在るけど
>それを拒否して生きて行ける事も在る。今の私がそうだし。
いいお言葉です!胸に刻んで、母を守りますヮ。
SPINさんの介護日記は・・・いろいろと考えさせられました。
  • from onamomi* |
  • 2008/10/11 (09:20)

無題

思い出しました、我が家の嫁姑問題を。
祖父は両親が結婚する前に亡くなったいました。
父は毎日、帰りが遅かったのです。
夕飯の飯台につくと、祖母の母への
小言が始るのです。
内容は私たち子どもの行状でした。

母が57才で亡くなって5,6年たった頃
話の流れのなかで、父は
「母さんは婆ちゃんと話し合って
子ども達を育てて・・・」と言った
のです。
私は体の血が逆流し、髪の毛が逆立つ
思いで、父にくってかかりました。
肉体的にも母は難儀していました。
祖母が母にしていたことを父は何も
知らなかった。
母はそれを父に一言も言わなかった
のだろうか。
母は一度だけ、私に言いました。
「実家に帰るときに婆ちゃんは一度だって機嫌よく送り出してくれたことがない」と。
言えば切りが無いほど 祖母の仕打ちを見ている私でした。
母がこぼした一言を今でもはっきり
覚えています。

このことで、父を一層恨んでいます。
一層というのは、父の思いやりが無かったために母は早く亡くなった という思いです。
後で、三人の妹たちもそう思っていることが分かりました。
オナモミさんと私の大きく違うところです。

父は91歳、近くに住んでいる父を介護する時に、私はどんな気持でやればいいのか、考えるところです。

自分のことばかりでごめんなさい。
すっきりした気持です。
聞いてもらってありがとうございます。
  • 茶々ママ さん |
  • 2008/10/10 (22:34) |
  • Edit |
  • 返信

Re:無題

茶々ママさんのお話で、豪農の友人宅を思い出しました。

埼玉の昔のお祖母さんは、自分のことを「俺」と言いました。友人のお祖母さんは「俺の若い時は」が口癖で、いつも友人のお母さんを叱っていました。「俺はもっと言われたんだ。まだまだ足りない」とも言いました。家族だけだともっと言うのだろう・・・と、いつも胸が冷たくなりました。友人のお母さんは当時32歳でしたが、高血圧・不整脈・血尿・帯状疱疹など、更年期状態の病気で・・・今思うと、ストレスからだったのでしょう。

嫁にぶつけるようなら、我慢したなどと言えない。言うな。嫁にぶつけるような我慢なら、しなければよかったのです。自分がされて嫌だったことをして「お前の為だ」なんて・・・そんなの、間違ってます。どの口が言う!ね。
狭い村社会で外面を保つには嫁いびりは必要悪だったのでは・・・とも、母は申しました。ハッキリしたいじめはなかった分、マシだったのね、と。母に義妹たちが何か言う時、祖母はいつも黙っていたそうです。「お姑さんは、誰の味方もしないんだ」と思っていたそうですが、わたしは思いました。「違う、お婆ちゃんは、誰にも興味がなかったんだよ」

>話の流れのなかで、父は「母さんは婆ちゃんと話し合って
>子ども達を育てて・・・」と言ったのです。
昔の男は、どうしてそう母を慕い、全面肯定するのでしょうね。父というものが頑健で強権であったその「影」なのでしょうか。父もね、わたしが「誰にも興味がなかったんだ」のくだりを申した時に丁度トイレに起きましてね。いや、ずっと聞いていたのかな。「ばあちゃんは、優しい人だったんだよ」と寂しそうに言いました。

>父の思いやりが無かったために母は早く亡くなった という思いです。
そのとおりだと思います。思いやりのないお父さんのためにお母さんを早くに亡くした友人が、わたしにもたくさんおります・・・。茶々ママさんの勇気で、妹さんたちもお母さんへの想いをはっきりさせることができたのは、よかったですね。介護。姉妹四人で折々・・・何が一番いいか、ね。たった57歳で逝かねばならなかったお母様への想いは娘として当然ですもの。
哀しみの記憶を時々辿るのは、大事なことですね。
すっきりされて、よかったです。
  • from onamomi* |
  • 2008/10/11 (10:09)

今は昔の物語に。。

なって欲しいですね。。。

嫁を排除しようとする『閉鎖的家族』
私自身もそういう場所で肩身の狭い生活をしたもんです。。。

実家の仏壇には、父の二度目の妻だった人が今、やっと父と寄り添っています。。。子どもの頃、その人を『宜野湾のおばぁちゃん』と呼んで大好きでした。でも、そのおばあちゃんは、子供を産めず、父が離婚した二度目の妻だった事を知ったのは、最近の事です。。。

一度子をなさず離縁された女は、次の嫁ぎ先も無く、実家でひっそりと暮らしながら、父の亡きあとも家に来て、母も丁寧に迎えていました。

一度嫁に行った女は、死んでも実家の墓には入れない土地です。
離婚の条件として、死んだ後はわが実家の墓に入る事でした。。。

それはそれとして・・・・

茶茶ママさんのお母さんは立派ですね。お姑さんの愚痴をほんの少しだけこぼしただけで、お父さんの愚痴は云わなかったのではないでしょうか?

親に対する愛憎というものは、簡単に処理できるものではないです。。
親を超えるしかないのかもしれません。。。
  • あばさ~ さん |
  • 2008/10/11 (00:26) |
  • Edit |
  • 返信

Re:今は昔の物語に。。

>一度嫁に行った女は、死んでも実家の墓には入れない土地です。
>離婚の条件として、死んだ後はわが実家の墓に入る事でした。。。
それは壮絶な土地ですね・・・日本て、広いですね、ほんとに。

だからいつも思うんです。思っちゃう。世界世界、ワールドワイドっていうけれど、足元のこと、どれだけ知っていますか、って。家族のこと、地域のこと、地方のこと、日本のこと・・・知らないことがいーっぱいあるでしょうに、って…と、無理やり行かされたアメリカで、考えたのですけどね。

>それはそれとして・・・・
>茶茶ママさんの~
茶々ママさんのブログもあばさ~さんのブログも、こういうテーマで語るブログではないから、宜しかったらここで、どうぞレスを続けてください。
どこかの、似た誰かの、哀しみを梳く答えが、みつかるかもしれません。
  • from onamomi* |
  • 2008/10/11 (16:52)

人生色々。。。

家の母は職業婦人でありました。。家計の担い手の一人として、無くてはならない存在で。
でも、長男の嫁として、跡取りを生むべしとの重圧はやはりあり。。
さほど強くも無い、小さな身体にムチ打って、、仕事、家事、育児とこなすなかで、流産、死産を繰り返し、やっと兄が生まれたのはケッコンして、8年の後。。

その間も姑の介護もあり。舅との確執もあり。一番辛い時期だったと思います。
母は小さな借家の裏庭で何匹もの通い猫を世話し、、丸い背中えお撫で、グチを聞いて貰い。過ごしたそうです。
外で働く女性も、家を守る女性も、、家に縛られ、翻弄された時代。
哀しくもあり、逞しいと感心もする、母達の時代。。
家長制度など、とうの昔に消えているのに、心はいまだ縛られて。。。

オナモミさんの
【父が母を全面的に脳天から好きだったことです】
これが何よりの宝なのかなと、、
家族が大事なお父様、、なにより、お母様が大事で、自分のせいで寂しい思いをさせてしまっお母様に、自分に出来る唯一の事が早く帰る(なるべく傍に居る)だったのかな、と想像ししました。
  • ぼぶ さん |
  • 2008/10/12 (00:09) |
  • Edit |
  • 返信

Re:人生色々。。。

>さほど強くも無い、小さな身体にムチ打って、、仕事、家事、育児とこなすなかで、流産、死産を繰り返し、やっと兄が生まれたのはケッコンして、8年の後。。
>
おんなじです、おんなじ。母もね、ずっと銀行に勤めておりましたよ。アパート住まいでは、公務員の平だと一家どころか妻も養えなかったのです。風呂がないんじゃ大変だろうと、爺ちゃんたら、勝手にアパートに風呂を作ったのですよ(笑)爺ちゃんは職人で汗をかくから、お風呂で苦労させるのは嫌だったみたいです。流産・死産を同じく繰り返し、同じく八年目にようやく姉が授かりました。が「また流れるんだろう」と、臨月近くまで勤めに出ててね。どうやら生まれそうだということで、実家に迎えられ・・・たつもりが、家賃まで取られるって話で。ハァ。産後のひだちが悪く、仕事に再び就くことはありませんでしたが。

>哀しくもあり、逞しいと感心もする、母達の時代。。
>家長制度など、とうの昔に消えているのに、心はいまだ縛られて。。。
丁度ね、今日、NHKの「ファミリーヒストリー」で、ルー大柴さんのことをやっててね。すごく、父と、父方の祖父と被りましたよ。うちの父も、戦前・戦中が忘れられなくてやる気なしの人だったから。でも、ルーさんのお父さんもお母さんも、何もルーさんたちには伝えてなかったんですって。そうですよね。記憶が強烈すぎて、語れないこともある。微妙に、消化できる年齢だったのかな、うちの父は。父の親族に言わせれば「甲斐性無しのやる気なしとわかっていてもいい人だと思う馬鹿」な嫁だったわけです。結婚前に実際そう聞かれ、ハァ、かまいませんと答えたそうで・・・そんな暢気で明るいところが母のよいところで好きなんだそうですよ、父は(笑)

>自分に出来る唯一の事が早く帰る(なるべく傍に居る)だったのかな
かもしれないですね。だったらいいな。ふふ。だって、やる気のないせいだと思ってましたから(笑)社宅の人、殆どが同じ職場に勤めていたのに、誰よりも早く帰ってきましたから。夕飯は絶対一緒に食べる決まりだったから、お友達と早くバイバイしなくちゃいけなかったのは、子ども的には辛かったなァ(笑)わたしたちは、いい時代に生んでもらいましたね。感謝して、生を繋がないといけないね。
  • from onamomi* |
  • 2008/10/12 (04:06)

モウヒトツ。。

【そんな母に「死んじゃえ!」などと言ったわたしは
父にお尻をぶたれて当然だったのです。
「わたしは、悪くない」なんて思っている、とても悪い子だったのです。】

コレは幼子を育てる母としての思い。

子供に暴言を吐かせてしまうのは、親的にトテモ辛い事なのです。
子供にはいつも笑っていて欲しいと願っているのに、、
大人の事情で子供に哀しい思いをさせる事が何より辛い。

子供は所詮親の与える環境の中で育つものだから、全ての責任は親に返ってくるのです。
罵声、それは言った本人が一番怖くて哀しい思いをする事を親は知っています。
「ワタシハワルクナイ」と言う自己弁護も
本当は「悪い事した」ってわかっているからスルのだというのも知ってます。

子供の考えなんて主観的で当たり前ダモン。

子供の行き過ぎた行為には相応の罰を与える事が必要な場面があるのです。
ある意味、それは赦しだから。。

お父様はちゃんとお尻をぶったんですよね?
感情に任せて叩くなら、、一番近い顔ですよww
軍隊式なら往復ビンタw

お母様も、子供には「言えない事情」が、涙になって溢れ落ちたのだろうと想像します。
  • ぼぶ さん |
  • 2008/10/12 (00:28) |
  • Edit |
  • 返信

Re:モウヒトツ。。

>子供にはいつも笑っていて欲しいと願っているのに、、
>大人の事情で子供に哀しい思いをさせる事が何より辛い。
>子供は所詮親の与える環境の中で育つものだから、全ての責任は親に返ってくるのです。
>言った本人が一番怖くて哀しい思いをする事を親は知っています。
>本当は「悪い事した」ってわかっているからスルのだというのも
んー、なるほど!当時のわたしも「ほら、こんな怖いこと言えちゃうんダカラ!」みたいな虚勢はありましたねぇ・・・背筋に冷たいものを走らせながら吼える子ども・・・(恥)

>お父様はちゃんとお尻をぶったんですよね?
そう。普段は頭にゲンコツ1個なんですが、わたしが母を泣かせた二回(もう一回は伯母さんちの子になる事件の時)は、お尻。とっつかまえられてバンバン(笑)二回目の時はもう大きいから、後で「なんでお尻なのさ、子どもみたいで嫌じゃん」と言ったら(まだ子どもだっつの!)「大事なことで叱る時は、頭や顔をぶったら通じないからだよ」みたいなことを言いましたね。ナミヘイ、常に哲学的な男。その哲学を、親や弟妹につこーてくれと思う娘ですが・・・ま、わたし自身、直系のこのループには弱いので、ナミヘイが天使になるまで胸に仕舞っておきますよ。ふふ~。でも、母には吐かせてあげたい。もうちょっと吐かせてあげたい。だって、電話がないせいでね、お婆ちゃんの死に目に会えなかったんですよ。
  • from onamomi* |
  • 2008/10/12 (03:49)

無題

わたしったら勘違いしててすみませんでした(>。<)、、、

オナモミさんのご両親、素敵ですね(^^)

親戚の方は、、、(^^;

オナモミさんちのご両親
すごく愛があるなあと思いました♪

究極の状態で選ばなければならない時ってあるんですよね。

わたしも、長年つれそった家族のほうを守るです☆

ほんと、ウチの母と一緒にしちゃって
ごめんなさいでした~(><)、、
  • ルナのお母さんです。 さん |
  • URL |
  • 2008/10/12 (11:04) |
  • Edit |
  • 返信

Re:無題

とんでもない、とんでもない~(*v.v)。5歳のわたしの目から見た話だけで終わっていて・・・きっと他にも、そう思った方がいるのだろうなァと( ´艸`)書いてくださってよかったですヮ!忘れていた「考察」が書けました~。
わたしの仕事、校了の山場が月なか、第三週前後に重なってるんですね。ヒロの話を書いた時って8日・・・取材フィーバーの時。校正が出入りする最中って脳ミソリフレッシュに違うことを書きたくなってブログをするんですが「消化するのに時間がかかってる」間に校正の修羅場を迎え「すっかり忘れて」しまっていますよわたしったら( ´艸`)ダメですね~。考察を書こうと思っていたこと、ルナのお母さんのコメントで思い出した情けない脳ミソ。所詮真面目なことを考えている時間が三割しかないパンダ人間ですヮ(*m*)

>親戚の方は、、、(^^;
そう~。ぶほー。でもコノヒトタチ、100人以上いる親戚のうちのたった20人弱ですヮ♪頭の中でサイナラッキョの塩ラッキョ~♪←音符かいな

両親はよく会話をする人でね。ずーっと喋ってます。喧嘩も漫才みたいです。子どもに聞かせてはいけない話は抑えつつ、ひたすら会話。あとは歌って踊る。父はウクレレを弾きましてね、小さい頃はそれにあわせて、毎日歌って踊りましたよ。言葉で、全身で、相手に伝えることは子どもにもうるさい人たちでね。おかげでおかしな大人になりましたよ(笑)
  • from onamomi* |
  • 2008/10/12 (12:27)

母と思い出話。。

私は末っ子で、祖母が亡くなった後、祖父が幾らか柔かくなった頃に生まれているので、母の一番大変な時期を知りませんが、姉との関係が上手く行かず、いまだ引き摺っている事もあり、よく、昔はどうだったの?と話を聞くようにしています(興味本位でもあるw)
当時はグチだった事も、今なら単なる思い出話。。
家族の仲立ちをする役目の私には必要な情報でもあり、一所懸命聞くので、ポツポツを話すソレは夜更けまで続いたり、、

詳細に覚えている事は、心に重く残っている事なんだろうと、何度も聞きます。。
思い出し、掘り起こし、私が聞き、肯定し、赦しをあげる(偉そう♪)そういう中で母の気持ちが解かれていくのが、分かるのです。

墓に入る前になるべく沢山の心の重荷を下ろして、軽い気持ちになって、最後には「色々あったけど、良い人生だった」と、そう思って逝って欲しいのですw
  • ぼぶ さん |
  • 2008/10/12 (11:06) |
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Re:母と思い出話。。

>よく、昔はどうだったの?と話を聞くようにしています
「名前の由来を聞きましょう」「ご両親のなれそめを聞きましょう」「戦争の体験を聞きましょう」・・・さまざまな趣き深い宿題をくれたダグ先生のお陰で、聞くのは得意技になりました。お題があるとすらすら喋れる両親、発表になるとわかっていて少ししゃちほこばる両親。同じお題を別々に聞いてみると「受け取り方の違い」というものがあることに気づき、小さな頭で考察を発表したりしたものです。うふふ。今でも泊まりに行くと「朝まで☆思い出語り☆GOGO~♪」大会です( ´艸`)だもんで、校正の谷間には泊まりはできないのですが。ふふ~。

仲良し家族には、必ずバランサーがいるものですね。うちは姉とわたしが交代ずっこでやってるのかな。今タラオが遅咲きの出世街道を走り始めて「一人だけ、うんとひ弱に生んでしまったせい」という重石がとれ、すっかりご陽気モードですよ、母は。残りの人生はお楽しみ~だそうです。目の前のことだけみて笑えるあの性格は、まさに天晴れの域です(人のことイエナイ(*m*))。生真面目度が一番高い姉は、それが時々ムカつくみたいですけどね(*m*)ちょっとしか違わなくても長女の重石を背負ってきた姉には、怒る権利があるってことにしますヮ。母が「勝手に背負った苦労」は、姉が多めに被ってきたのだから。
  • from onamomi* |
  • 2008/10/12 (12:41)

無題

いろいろあったのに
明るくて、ますます素敵な家族ですね(^^)☆
すきすき!そういうの♪

うちもがんばるんだわ〜!

しかし親戚多いですね〜、、、(^^;

あたしのコメントがきっかけで思い出されたんですかあ☆
お役に立てたような
やっぱりごめんなさいなような〜
ふくじゃつーーなので
プラマイゼロでオッケー??(壊。)

、、すみません(>。<)
  • ルナのお母さんです☆ さん |
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  • 2008/10/17 (12:04) |
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Re:無題

単純に、忘れっぽい都合のいい脳ミソな家系みたいです( ´艸`)母方の親戚、わたしも含めて、ミョーにみんな、キャラ被りデス…サザエさんに巨人の星一家とフーテンの寅さん一家が混じってますヨ…やばし!(笑)

中学生の時「日記に書きとめられなかった日は、どこに行ってしまうんだろう」って記述をみかけたことがあってね、なるほどなァ、と。なんでも覚えていたいなァって思ったんですよ。その時辛いことも悲しいことも、時が経てば、どれもこれも懐かしい思い出で…こうして言葉に解きほぐすと、やっぱり嬉しいや愉しいの方が強く残ってて…あー生まれてヨカッタ♪って思うんです(能天気~)ほんとにありがとうございました(*v.v)。

ほんっとに親戚多くて~。母は末っ子なので、従姉妹の子どもの方がわたしより年上だったり、さらに子どもを生んで~減るより増える方が早いのデス( ´艸`)しかもみーんな普通の電車で行けるところにいる~。一番遠い人で2時間。藤沢です。
  • from onamomi* |
  • 2008/10/17 (13:16)

無題

なんかにゃごしゃんの記事を読んでいるといろんな事考えちゃいます。私の子供のころの記憶はとっても曖昧なのですが、少し思いだしたり、母の人生は、、なんて考えたり。当時の「常識」と「縛り」の下りはほんとに良く解ります。昔母が「私が今の時代にあなたの年だったらあなたより奔放に考えたり行動すると思うわ」と私に言ったことを思い出しました。小さな旅館の一人娘が婿を取っての暮らしは私なんかには解らない苦労がいっぱいあったことと思います。何気に言っていた母の言葉を今度ゆっくり思い出してみようと思います。にゃごしゃんの方がよっぽど記憶の扉を開いてくれていますよ(笑)
  • ミニちゃん さん |
  • 2008/10/18 (15:51) |
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Re:無題

与謝野晶子の作品も生き方も個人的には好きになれないのですが、あの時代、女性から熱烈に支持された背景は激しく想像できるんです。時代が押し付ける全てを嫌って猛進的に私生活をも晒す作品を吐き出した、そのものとは別のところで、あの迸る情熱に「次の時代」を見たんだろう…と。
時代への抗いであった晶子の生き方を、我が母は「ちょっとねぇ」と苦笑します。母が次の時代を見たのは、ひばりちゃんだそうです。女性というものは、常に母の時代を思い、自分の時代よりも次の時代のことを思うものなのかな…なんて、想像の翼は広がりっぱなしです( ´艸`)

minichanさんの記憶が曖昧なのって、多くの人を間近に見る生活の中で「見ないフリをしなさい」と教えがあったのかな…なんて、考えたりします。宿泊客を温かくもてなしつつ、細かいところは見ない・気づかないフリをする…老舗の小さな旅館のおかみさん、お母様、そんなイメージです。お兄様が代をとって人が変わったように…というお話の時も、お父様から「お前は好きなようにやれ」なんて、二人っきりの時にすり込まれてたのかなァ…なんて。守るもの、残すもの、そのために、兄妹それぞれに違う面の教えがあったのかなァ、なんて。
うちの残すものは…なんだろう…次の課題、ですね(笑)
  • from onamomi* |
  • 2008/10/19 (00:56)
  
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