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オナモミ亭 ~猫柳一番地~

くも膜下から回復中の父のことを綴る場。

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【PICKUP OLD】開かれる、記憶の扉

再び…ですが。2007年09月10日21時13分のエントリーを、どうぞ(*v.v)。

minichanさんの何気な~いコメントからわたしの記憶の扉が開かれ、先日【おきねこのヒロ】を書きました。
とても大切なのに、あまりに哀しくて、しょっちゅう思い出すのに普段は「封印」されている記憶でした。

そしてまた今日…minichanさんはわたしの記憶の扉を、また、ノックしてくれたんです。☆・゚:*(´ω`*人)

トントントントン( 。・ω・)ノo∥★キーワードは2つ♪★||☆ヾ(・ω・。) ハーイ、イマアケルネー
  ① 5歳で涙が枯れるという言葉が出てくるなんて凄いですね。
  ② 5歳でシェークスピア全集?凄すぎます!!


■□■涙が枯れる、というコト■□■

この時「涙が枯れる」というのは、言葉としては知りませんでした。
体が知った、体で感じた、というか。

ここら辺の記憶は曖昧なんですが(所詮5歳だもんで)…
たぶん半日以上は泣いてたんですね。
もちろん、飲まず・食わず・出さず・眠らずで。ナントモ頑固な子どもです…。

で、ものすごく悲しくて泣いてるのに、もう涙が出てこなくなっちゃったんです。
生体を維持できないほど水分を使ってはイケナイ!と
体が涙を封印したみたいでした。

今思えば「体ってよくできてるなー!」ですが
その時は「こんなに悲しいのになんでッ」と
涙が出ないことすら悲しくて、さらに泣き(吼えてた?)
すごく疲れて頭も痛くなって、このまま死んでしまえると思ったような…。

どこで涙腺が決壊するかって、人によって違うと思うんですけど
涙が出てないから悲しくない、ということではないんだ…と
この時知ったように思います。


■□■なぜ5歳でシェークスピアか、というコト■□■

「まぁ~!色白で目が大きくて…
お人形さんみたいなお嬢さんだこと~♪可愛いわねぇ!」

…残念ながら、わたしのことではアリマセン。姉のことです。

大人というのは残忍な生き物です。おばちゃんは特に残酷です。

隣に、だいぶ黄色くてツリ目で奥二重のわたしがいるというのに
会う人会う人、ほぼ全員がこう言いました。
わたしには…というと「あら利発そうなおちびちゃん」がオマケにつけばいいところ。
眼中にない!と言わんばかりの扱いぶり&差別ぶりでしたヨ。 ぶっほォ!

この記憶がいったい幾つぐらいからのものか…というと
アルバムによると、どうやら1歳位からなんですね。
たっちして歩いて、本人的には「一人前」と思っている頃です。

   確かに、姉ちゃんは可愛い子でした。
   今写真を見ても、ほんっとに可愛い。

おばちゃんたちの集まりに連れて行かれるのは苦痛でした。
姉ちゃんはいつも話題の中心になり、おばちゃんたちは
「お膝へいらっしゃい♪」とか言うわけです。
オチビのわたしは…と言えば
首のすわりがよく大人しかった(当時は!)のが災いして、ほぼ放置。
そして、おばちゃんたちは…姉ちゃんを構いつつ、連呼するする!
「色白!」「大きい目!」「可愛い!」

対義語のブサイクについてはまだ知りませんでしたが
(知らないどころか、一人前のつもりは本人だけで
傍から聞けばバブバブしか言えてない赤ん坊やっちゅの(*m*))
【姉ちゃんは可愛い、わたしは可愛くない】これが脳髄に叩き込まれていきます。
【利発そう】という、わたしに対する唯一の褒め言葉も、また、然り…。

   確かに、利発な子どもでした。
   姉ちゃんが幼稚園や学校で習ってくることは
   いつも姉ちゃんよりずっと早く覚えてしまいました。
   平仮名・片仮名は3歳位までに覚えましたし
   家族の名前は幼稚園入園前に全て漢字で書け
   それぞれの字の意味もわかっていました。
   辞書とお友だちなので、なんでも読めてしまうのです。
   読めたら書きたい。書けたら知りたい。それが子どもの欲求です。

悪いことに…教育関係に従事する親戚が多く
両親も読書好きで母にいたっては子ども文庫活動をワシワシしてましたから
家には良書がたくさんありました。

ルビと辞書を頼りにあらゆる本を読んでいると
客人に「すごいわね~」と言われるんですね。それが嬉しくて、どんどん読む。
得意げに本を持ち歩き、読む姿を見せ、読後の感想まで述べたりしました。

既に小学校低学年向けのものは暗記するほど読み倒してしまっていて
かといって芥川龍之介や太宰治など、母が好きな本たちはさすがにまだまだ面白いとは思えず
5歳の当時「読みたいな」と思える「表紙のもの」の残りが
【シェークスピア全集】だけだったんです。理由はそれだけ~。
従姉妹のお下がりの、赤と金の背表紙でね。それはそれは素敵な豪華本でしたから♪

   ああ、可愛げのない子ども、まっしぐら ┐(  ̄ー ̄)┌ フッ
   でもわたしにとっては、キャラクターグッズを持つのと同じことだったのヨ。

てか、大人は子どもの前でサ
もっと物言いに気をつけなきゃいけませんわッ、プンプン。
ま、おかげさまで今文字で食ってるんでいーですけどネ。

え?今?姉ちゃんとどっちが可愛いか?
そりゃーもちろんわたしの方ですヨ?!   (艸` )プ(艸`= )プ(´艸`= )プ(=´艸`= )プププッ☆ホントカナ
姪っ子は「ママよりずぅっと可愛い♪」って言ってくれるもん v(≧∇≦)v

あんまり可愛いと言われ過ぎた姉は「そういうことはドウデモイイ人」になりました。
わたしは姉ちゃん大好きでしたしね。可愛くてスポーツ万能でちょっとマヌケで(^m^)
激しいソフトボールのトレーニングのお陰?で、後天的に二重に勝手になったしぃ♪おーっほっほ♪
ビバ、ソフトボール♪ビバ、鬼先輩♪おーっほっほ♪


★ついでに読んでみます?青春ソフトボール、カキーン♪★
(1)甲子園編(2)甲子園疑問編(3)ソフト莫迦編



■□■記憶の扉をノックしてみよう■□■

忘却と転化は、神が人間に与えたもうた最大の能力…と言うそうです。
嫌なことや辛いことを無意識のうちに「封印」して脳ミソの活動領域を増やし
前向きに生きていくチカラにするんですって。

でも、時に、そんな記憶の扉を開けて、自分の心と向きあうのも愉しいことです。
(この場合の愉しいは「いとおかし」ですね)

 トラウマは、誰にでもあります。
 でも、克服しなくていいものなんですって。
 だって「どうしようもなかった」からトラウマなんですもの。
 
 ただ、トラウマをトラウマとして認識すると
 「●●だから仕方がない♪」…と自分の中で忘却から転化・転嫁に変じます。
 理由が見つかると、納得&安心するのが人間です。
 克服しよう!なんてリキまずに、記憶の扉…開いてみるのも、いいかもしれません。
 
 
 minichanさんがわたしの担当編集だったら…随筆家になれそうな気がしてきましたヨ…
 ヤァネ モゥ(*ノω・)ノ(〃 ̄ω ̄〃ゞアハハoO○(ナニモイッテナイシ)

8e749816.JPG 【追記_9/11(TUE)12:50】


 ★記憶の扉の開き方★

 ★劣等感の「ない」わたし
 ★簡単ロジカルシンキング
 ★わたし的「よいこ」の定義


 過去に書いた記事たちです。扉を開く鍵になる…かな?

 幸せの第一歩って、自分を【知り、納得して、愛すること】
 なのかなって、よく思います。

●過去ログより~記憶の扉、思考、猫写真●
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清志郎さんが開く記憶の扉(3)~僕の唯一大嫌いな先生

大好きな先生や人生の師匠の想い出を書くことにしているこのシリーズ。

わたし、先生運が実にいいヒトです。ラッキーな子どもでした。
これで人生の運を使い果たしました~~~ってぐらい、いい先生ばっかりで
どの先生も大好きでした。

ですが。
いましたネ。
1人だけ、赦しがたいほど嫌いなヤツが。

器用で器用でショウガナイこのわたしに2なんてつけやがった
あの、あの………クソババァですっ(*m*)(こらこら)


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・・・◆家庭科のクソババァとわたしたちのバトルを読む≫≫≫≫≫◆Click,Here♪◆

清志郎さんが開く記憶の扉(2)~僕の好きな先生その2

今日は校了日その1です。校正佳境です。てんやわんや、なんじゃもんじゃ、どんなこっちゃ~になっています( ´艸`)
それは「明日できることを今日やらない」からです。ぶほほほ!



そんなわけで、大好きな先生のひとり、高校の古典と漢文の「モギ先生」を思い出していました。
先生の記憶に残る授業はこちらです。よろしかったらどうぞ( ´艸`)


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・・・◆モギ先生の想い出のハナシを読む≫≫≫≫≫◆Click,Here♪◆

高田馬場ノスタルジック写真館~昭和アンソロジー

ちっくんに見送られて… これをみつけたのは…




わたしの故里、高田馬場


●昭和、東京、江戸っ子、思い出、家族、PowershotG2●

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・・・◆とてもとても長い≪続き≫です゚(*v.v)。≫≫≫≫≫

ウッカリな妻はウッカリな叔母&サザエさんについて無駄に考えたヒト

連休中、夫のヒトシにPCを占拠されています。
週の後半「だって前から約束してたんだモーン(お店と友だち両方)」と飲み続け
社内外の宿題がてんこ盛りのようです。ぶほほ。わたしは掃除ですヨ~。

ゴルフスクールに行ってくれたので、暫しPC奪取です( ´艸`)写真はナシ子さん。

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マンナカジージョ第三弾~最終章

ジャスト一週間で終焉を迎えたイソノ家の大騒動。

前フリ   <マンナカジージョ (小学生編)>
本編1  <マンナカジージョ第三弾~ト書き>
本編2  <マンナカジージョ第三弾~顛末記>


相談に乗ってくれた友人たちから
「いったいどのポイントでコメントしたものやら…」と…ぶほほほ。

止めどころがワカラナクなって実況中継(再放送)してしまいますた
すびばせん(*m*)



てーれーれーれーれってれー♪ドンドン♪(追加点のチャーンス♪)


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マンナカジージョ第三弾~顛末記

マンナカジージョの続きを書くことになろうとは…ぶほほほほほ。


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マンナカジージョ第三弾~ト書き

マンナカジージョ[小学生編]…お読みいただけましたでしょうか?ふふふ。
記事にはしておりませんが、第二弾が、二十歳の時にもありましたの…
ついに第三弾が勃発したのですよ~( ´艸`)(この顔でいいのでしょウか…たぶんOK)

やー、大変な、熱くおかしな一週間でした。
本題に入る前に、ト書きが必要な状況です。
日曜の晩は徹夜、昨日は仮眠四時間で、延々家族会議…
いや、逆に、よくそれだけでまとまったよネ、ブラボーな我が家族よ。
普段からよく話し合う、我が家族だからこそ。

みなさんのご家族にも降りかかるかもしれない…降りかからない方がいい…事件デース。




 

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とらちゃんとヒロ~時代の波間と記憶の扉

【おきねこのヒロ 】を読んでくださってありがとうございました。
涙が枯れるという言葉は、その時知っていたのか・・・
なぜ5歳のくせにシェークスピアを読んでいたのか・・・
なんて余談をまとめた【開かれる、記憶の扉】も、よろしかったらどうぞ(*v.v)。
小憎らしい幼きわたしに、会ってやってくださいな。うふふ。


明らかに、わたしたち姉妹を「小さきもの」として慈しんでくれたとらちゃんは
いつもわたしたちの「小さなお兄さん」でした。
ままごとではいつも赤ちゃんの役をしてくれました。人形用の乳母車に乗ったり

 こんな風に布団で寝てくれたり。


それまで、三世代同居が当たり前だった日本の暮らしに変化が訪れ
「憧れのマイホーム」をたくさんの家族が手に入れ、移動したあの時代
たくさんのヒロととらちゃんが全国を彷徨い
たくさんの「小さなわたし」が、涙が枯れるまで泣いたことでしょう。

でもね、わたしたちは「猫ぐらいでそんなに泣くな!」
そう叱られることがありませんでした。
涙が枯れるまで、記憶を封印できるまで、泣いて怒ることが赦された。
わたしたちはきっと、当時のモノサシでは、とても幸せな子どもだったのです。

そのモノサシは、時代ごとに違う。
時代の狭間で零れる涙も、それぞれ。


久しぶりにあの記事を読み返し、新たに頂いたコメントに触れ
あの時、あの後、書かなかったいろいろなことを想い出しました。

あの記事を書いた後、母と話をしまして。
母の記憶の扉も、少しだけ、開いたのです。



とらちゃんとの別れの記憶を生んだあの引越しを
社宅であっても「憧れの核家族計画」だと、そうわたしは思い込んでいました。
両親が望んで埼玉の地へ引越したものと・・・でも、そうではなかったのです。


子を生さない嫁は「石女」と陰で呼ばれ、離縁も当たり前だったあの時代
なかなか子ができなかったことで嫁とも義姉とも思われていなかったこと。

ようやく子ができた・・・と同居をすることになったけれど
姉、わたし・・・と女が二人続き、ますます冷めた関係にあったこと。

長男の嫁として迎えられるのだ・・・と膨らんだ気持ちがぺちゃんこになったこと。
とらちゃんを家にあげたことで風当たりが強くなったこと。
三人目を身籠っていたのに、突如実家解体の話しがあったこと。
既に出来上がった新居は横浜で、最初からわたしたちのスペースはなかったこと。
当時の平公務員の月給では、とても近隣でのアパート暮らしは無理だったこと。
社宅の中で、すぐに入れる空きがあったのは、埼玉のあの場所だけだったこと。
末娘が「埼玉なんて遠くに」行くことに落胆した母方の祖父母が
がっくりと老け込み、わたしが5歳のあの一年に、相次いで亡くなったこと。



記憶を紐解いても、母は
義妹や姑である祖母のことを悪くは申しませんでした。
昔の人ですから。

わたしの記憶も、再び、開く。想い出す。

母は、高田馬場のあの家で、いつも肩身が狭そうだったことを。
同居していた叔父や叔母に遊んでもらった記憶が全くないことを。
わたしたち家族は、母の父である指物師の祖父が手入れをした二階で
間借り人のようにひっそりと暮らしていたことを。

お化粧も洋服も我慢して、当時は贅沢だった写真をよく撮ってくれた母でしたが
同居していた叔父や叔母と遊ぶ姿の写真は、一枚も、ない。
母は「何気ない日常の一瞬」を切り取るのが好きな人だったのに。

ワタシタチハ、アノヒトタチノ、カゾクデハ、ナカッタ。
残念ですが、これは紛れもない事実。
他人より遠い心の関係を、認めたくなかったわたしたち。
苛められるわけでも喧嘩をするわけでもなく
ただただ、全く受け入れてもらえなかった。
母方の親戚があまりにも仲良しだから、見つめる必要もなく
気づかないふりをしてきた事実。

とらちゃんとのお別れは、母にも父にもなんの権利もない「御家の事情」の・・・
そんな事情でとらちゃんは・・・とても哀しく。

でも、少しだけ、嬉しくてね。
天邪鬼なわたしも、過去の猫たちを手放さなかった話を聞いた時に
「嘘だ、お母さん、とらちゃんは捨てたくせに」とは何故か言えなかった
あのモヤモヤの答えが見つかったんです。

カゾクノダレモ、トラチャントノワカレヲ、ノゾンデハ、イナカッタ。
しばらくわたしのブログから「仲良しな親戚」の話が消えました。うふふ。
消化するのに、ちょい時間が必要だったんです。
嗚呼!なんてお人よしなの~わたしたちったら。
「仲良しで大好きな親戚」に、アノヒトタチまで入れてたなんて。
仲良しだと思い込もうとしてきたなんて、なんて莫迦なんでしょう。
モウイイヤ、タニンタニン。
そう思えたら、長年胸に痞えていたモヤモヤがスッキリしちゃったんです。
minichanさんには、足を向けて寝られません~。感謝。

我が家の救いは、父が母を全面的に脳天から好きだったことです。
実の親や弟妹の中では「しっかりせぇ!」と言いたくなるぐらいの父ですが
心の底から、父が、母の敵となったことは一度もありません。
すまないね、と声をかけたり、ありがとう、と呟いたり。
わたしの記憶ではそうですが、母の記憶でもそうでした。


全自動洗濯機も電子レンジも、炊飯ジャーさえ無かったあの時代
母は、嫁は、大変な大変なつとめでしたね。

「みんなそうだったのよ」と母は申します。
離婚を選んだひとは頑なまでに強くあらねばならなかったあの時代
耐えることの方が楽でもあったとも申します。

そうだったのでしょうか。
そうだった場合も、そうでなかった場合もあるでしょう。
時代の狭間と波間に流れたたくさんの涙は
わたしの想像の翼でも追いつくことができません。

当時の「常識」と「普通」の縛りは、今の比ではありませんでしたよね。
わたしがとらちゃんとの別れに流した涙と、枯れるまで泣いた涙と
比べものにならない量の涙が、たくさんの方の記憶の底に、眠っているはず。
流すこともできなかった涙が。

 物言わぬとらちゃんの心にも、きっと。


当時、母の姉兄夫婦は、全て都内に住まっておりました。
都電で、市電で、30分もすれば会えるところに、全員が住まっておりました。

八人兄弟の末っ子で、甘えっ子な面のある母
30代だった母
40を出たばかりの父

電話どころか、電線すらまだない
カルキで真っ白な水の出る新しい小さな町で
どんなに心細かったことでしょう。

戦中・戦後は福島に疎開しておりましたが、御茶ノ水で育ち神田で遊んだ母には
わたしたちが大喜びした畑も森も野原も、ただただ、暗く恐ろしく
戦中の記憶を呼び覚ますぐらいのものでしかなかったそうです。
父はいつも6時には都心の勤めから戻って参りました。

村から名ばかり町になった田舎の小さな病院で、初めて一人で迎えるお産。
母はどんなに心細かったことでしょう。
子どもの生めないわたしは、その苦労も恐怖も
本当の意味ではわかちあうことができないのが、残念です。


そこに、とらちゃんの温かい背中があったなら、と
一番思っていたのは、きっと、母。

まだ若かった、今のわたしよりも若かった、母。
夏休みの時期で、我が家が一番に引越してきてご近所さんもおらず
119世帯が未入居のがら空きの団地で、寂しかったであろう母。
戦時中も猫を手放さずに叱られ、鶏をしめたと言っては泣いた母。


自転車もバスもなく、預けるご近所さんもおらず
弟をお腹にいれた母がどうやって隣町の本屋まで行ったのか
その部分の記憶は、母も曖昧でした。

「お父さんが休みの時にみんなを見ててもらって、歩いて行ったんだろうねぇ」。

毎日がいっぱいいっぱいだったはず。
一日でも早く、娘たちに笑顔を取り戻したかったはず。


ようやく生まれた弟にはたくさんの病気があり
わたしたち姉妹もとても心配したものでしたが
あの夏は、母にとって、とても辛い夏だったろうと、今、思います。

そんな母に「死んじゃえ!」などと言ったわたしは
父にお尻をぶたれて当然だったのです。
「わたしは、悪くない」なんて思っている、とても悪い子だったのです。


賢いつもりでも、所詮、子どもは子ども。
幼きわたしの思い上がりが零させた、母の涙。



子どもの知らないことが、たくさんある。
本を幾ら読んでもわからないことが、たくさんある。
言葉にできるのは、記憶に残るのは、ほんの、一部。

そんなこんなを、大きくなりつつ、少しずつ理解し、思い知るのでした。




人は、大きくなっても、進化していくイキモノに違いない・・・と思って・・・反省する、ムスメ。



●記憶の扉、思考●
☆イラスト~「もずねこ」さん☆リンクバナーから是非どうぞ

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バカカゾク ト シアワセ ノ テンビン

お盆より師走より忙しい九月が終わりました。あ、わたしにとって(^m^)


とにかく家族イベントが多くて~。毎週末、家族とナニカがあります。
どいつもこいつも文化活動もスポーツも大好きなもんで・・・
観客のわたしはダブルヘッダー・トリプルヘッダー当たり前ふう。

世の中は期末&期初で忙しいし~
仕事人でナンチャッテ☆シュフだから~
ヒトシの出張の準備やら、何故かヤツのレポートまで・・・ぐぉらっ。
校了が月末にないのは幸いでアリマス・・・ちゅか、作戦♪
なんたって不参加は不可能なのですから。
 大イベントのとどめは、甥のタラオ2号の文化祭です。

弟のタラオ以外☆全員集合でしたが、召集令がなかなか発動せず~
ライオとのびちゃんの蝋燭イベントを・・・びぇぇぇぇん。
母のフネモドキと電話してたのに2人でスルー・・・びぇぇぇぇん。
おまけに出張のヒトシにPC持ってかれちゃって・・・びぇぇぇぇん。

なんだかんだ言って、わたしもイベント大好きだもんで
ほんと、だァいぶ、凹みましたヨ。とほほ。 ← 莫迦
※29日の記事一本、コメ欄オープンにしたので、宜しかったらカキコしてやってつかぁさい~。


サテ。タラオ2号も書道をやってオリマス。
  母、嬉しそう( ´艸`)


 よその子の作品だけど、含蓄一等賞♪


甥の参加してる模擬店(クラス・書道部・スキー部)で食いまくる莫迦家族。
 これじゃ誰が誰だかわかりませんネ( ´艸`)


姉のサザエモドキはぴーちーえーをやっているので
学友君たちが「タラちゃんママ、コンチワーッス!」と挨拶に来ます。
サザエモドキ、いちいち「おー◎◎君♪」と全部名前を覚えちょりマス。
歩く度に「ちぃーっす!」「コンチワーッス!」「お疲れサマッス!」
どんだけ目立ってるんだヨ、ネエサン(*m*)

「タラちゃんシスター、オイッス♪」の掛け声も多かったけど
マスオ兄さんには声援ナシ・・・兄さん・・・(*m*)
 ちょっと感慨深かったことがありました。

「タラちゃんファミリーだー!」って、学校中の友だちが見に来るんです。
「すげぇナァ!」「いいナァ!」「愉しそうだナァ!」って。1500人の観衆ですヨ。
欽ちゃんファミリーどころの注目度じゃなかったですヨ。
ママさんたちも「芸能人かしら?」って大注目してましたヨ。

   タラオ2号って、高校三年生なんですヨ。デカイですヨ。
   もう殆んど大人な子たちです、学友君たち。

その友だちが、ほんとに小さい子みたいに見えました。
寂しいのかな、つまんないのかなって、思ってしまった。

「うちの家族って変なの?なんか注目されてるヨ?」と言ったらワカメが
よそんちって、もっとつまんないみたいだよ。
こないだ友だちが『 ワカメちゃんの叔母さん、最強だネ 』ってさ
」だって。
最強って・・・わたし、いつもよりマトモにしてたハズなんだけど・・・(^~^:)

サザエモドキに聞いたら、どのおうちのご両親も、忙しいんですって。
「お金をかけるのも大事だけど、気持ちはもっとかけないとなんだけどね」って。
サザエモドキ、よそのご家族をけして否定しないのです。
なかなかいいママであります。そしてなかなかよい家庭を構築中。


   大きく幼き学友君たちよ。

   小さな子が悲しいと思うことを、うんと悲しく感じる君たち。
   我儘言ったら悪いかなって考えて、おうちで黙ってる君たち。
   ご両親の愛情は感じながら、ちょっと違うと思う自分を責めてみたり
   大人と子どものハザマで揺れる君たち。

   ほんとうの大人になる心の出発点に、多分今、いるんだよ。
   男の子が大人になるのは、女の子より遅いもんです。
   まだまだ子どもで、いていいんだよ。

   「なんか寂しいナァ」と思ったら、その「なんか」を紐解いて
   自分が家族を作る時にリベンジするのもいいと思う。
   ちょっと恥ずかしいうちの莫迦家族を見て
   自分の家族の方がいいナァと思ってくれたら、オバチャンは嬉しい。



ということで、完全なる☆恥ずかしい☆オバチャンを熱演する方向に路線変更♪
それでイイノカは置いといて~♪漫才GOGO~♪≪本日の相方:タラオ2号:拒否不可

   「オイ、タラオ2号♪ワシをみんなに英語で紹介しろ♪」
   「えっえっえっ・・・?(赤面)」
   「シー イズ マイ アント。マイ マザーズ リルシスター。 だろっ」
   「あっあっあっ・・・・(涙)」

学友君たち、爆笑。やったネ、今日もホームランだ♪
つか、タラオ2号「それ英語ちゃうやん、カタカナやん!」のツッコミはどうしたっ。
「ドモ、アリガトウゴザイマシター♪」って〆られないやんかっ。
練習なしでそのくらい出来なくては、ウチの家族としての修行が足らん。
受験が終わったらシゴイテヤル。 ※本人は数Ⅲを復習したいそうデス。


まだ子ども~って感じの笑顔に、実はかえって心配になってしまったデス。
愉しいこと、いっぱい求めてください。親にもっと心で甘えちゃいなさい。
大人になるのは、もっともっと、後でもいい。

でも、素直で礼儀正しい学友君たちの親御さんは
うちほど面白くなくたって、とてもいい親御さんに間違いないです。
オモシロイことしてる暇のないご両親に感謝する日が、きっと来る。
うちがオモシロイのはオマケだし。一応、主じゃナイ・・・ハズ(^~^:)


しかし、マスオ兄さん、本当に食いまくりで・・・
顔にメガネが食い込んで、絆創膏貼ってましたヨ!(*m*)
バナナダイエットをしてるらしいですが・・・食うのを減らせヨ~。

と言ったら、イインダモン!と、珍しく反論してきました。
兄さんも、自分の影が薄いの、悔しかったのカシラ(*m*)


   このあと実家に泊まりに行って、夫のヒトシはヒトシずママの誕生会で・・・
   いろいろあったのですが、それはまた今度。




●家族、日常●
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ササクレ ニ キク ビタミン

わたしは滅多に日本語の曲を聴きません。
テレビを殆んど見ないので、流行の曲も知りません。
日本語を並べる我が仕事に、ちょいと邪魔になるというのが大きな理由です。

J-POPと呼ばれるものは、実は、大そう苦手・・・アレンジが耳に辛くて~。
シンセ系の音がダメなんです。スライダーズ、ウルフルズ、矢野顕子さんは大好き。てほっ。
これはわたしの耳のせいが大~と思います※が、そんなこんなで
子どもの頃に聴いた曲、親が口ずさむ曲以外は殆んど興味ナシ子さんです。

でも、タテタカコさんのうたは別。 特別。
聴きだすと、止まらない時があります。

ブログをするようになって、思ったことがひとつあって。

三割の理論て、ご存知でしょうか。二割の理論とも、一割の理論とも言いますね。
ナニカが発生する率は決まってる  ってヤツです。

マンモス社会では、この理論が、よい方に作用することが多いのカナ  と。
哀しい・苦しい・辛い・・・等の暗面の感覚が薄まる感じ。
これは人によって違うのでしょうが。

  (1) 7 対 3
  (2) 70 対 30
  (3) 700 対 300

わたしは常に (3) 以上の数の中にいた、ややアウトローな愛想のいいヒト
…に見える、完全なるよその星のヒトでした( ´艸`)

わたしの親戚は一都二県に約100人います。
親しきはマスト!且つ礼儀ありき・・・の この母体の中で
大勢の中での自分の在り方を常に考える ということは
極々小さい時から認識していた・・・と言うより、とても厳しく躾られました。

元来能天気なわたしは、常にご陽気さんな方向に思考が向きます。
後で考えると「そんなに大はしゃぎするほどのことだったカァ?」
なんてこともありますが、嬉しいや愉しいは、最低でも7倍になるのですから
強烈にそっちの記憶が胸に残るんです。

多数決的負け組の中にいる時でさえ常に300人以上の仲間なり味方なりがいるわけですから
(わたしは人の名前や顔をすぐ覚えます。ミシラヌダレカ ではない感じなの)
ひとつのことに執着して悲しんだり怒ったりする時間もないし必要もナイ・・・
常にそんな感じが自分の中にあって。

  300人が喜んでくれたら嬉しいナ とか
  300人の人が一緒に責められるならわたしが謝っちゃおウ とか

社会に出てから、よりいっそうこの傾向は強くなったようです。
本当は哀しかったり頭にきたりしたんだろうけど・・・
そういった方の感情の記憶は、ひどく曖昧模糊としています。

それでも稀に、かなりイヤなことってのは  起き  マス。

そんな時、理論家で理屈屋のわたしは、理論で斬り捨てます。
分解し、言葉にして並べ、納得し、思考を転換させ、忘却するのです。
理論でダメなら理屈でGOGO~♪ 屁理屈もGOGO~♪(音符かヨ)


子どもの頃は「メモボックス」と名づけたお菓子の空き缶に
書いては投げ込んでいました。

   新しい筆箱じゃない。
   そんな些細なことで 苛めや嫌がらせが起きるのを
   大人は知らない。
   大人の方がよほど無邪気だ。
   子どもの世界を、大人は知らない。

とか、そんなことを。母が急に新しい筆箱を買ってきたりしました。


今でも、本当に真剣に考えたいことは手書きです。
企画書なども、必ず手書きのプロットから入ります。
手から出た言葉の方が、魂がこもる感じがするから。
魂をこめた方が、脳髄が冴えるから。

  喜怒哀楽の全てが、ほとばしって、紙の上を踊る。
  言葉に解きほぐすと元気になります。

目的は、イヤなことの原因を嫌悪することではなくて、元気をだすこと。
ワタシガ、莫迦デシタ  それを見つめ、納得する過程。 

だから、本当は思い入れがあっても、哀しいなと思っても
非情なまでに斬り捨てます。

元気ガナケレバ、ワタシハタダノダメナヒト。  好きな自分は、自分で作る。


しかし自分で紡いでおきながら、並べた言葉に驚いてみたりスル。(莫迦~)
非情に斬り捨てられる冷めた自分を嫌悪もスル。(莫迦~)

  あーなんて冷たい人間なんでしょウ とか
  うーでも守るべきもののためには仕方ないよナ とか

長い時で一応三時間ぐらいは考えます。 充分短っ!
でも長ければいいってもんじゃないもんネ。きっと。

そんな時、タテタカコさんのうたを聴くことが多いです。
ササクレた心に効く ビタミンボイス。うー、やっぱりわたしはわたし♪ そう思えてくる ビタミンなうた


<卑怯者> You Tube Go Go!!
ウンウン、わだすが卑怯者~ それでいい~ だから神様お天道様、赦して~

<心細い時にうたう歌> You Tube Go Go!!
卑怯者かヨ~!いいヨいいヨーだ!の気分は やっぱり吹き飛ばしたいヨ
にんげんだもの せんだみつおナハナハ

<遠い日> You Tube Go Go!!
過ぎたことをクヨクヨしても仕方ないよねぇ~ て、クヨクヨってなんだ?

名付けて、 タテタカコ三段逆スライド方式 。 (ちがっ)
わたしは 「わたしの好きなわたし」 に戻ります。


若い頃はHRやHM、PRなんかをガンガン聴いて「わたしに戻って」 いました。
大人になっちゃったナァと思うのって、こういう時かもしれない。


で、タテタカコさんを聴くと、なぜかお裁縫をしたくなるんですよネ。
外弁慶で愛想よしのわたしは、なかなか自分の時間がとれなかったりします。
せっかくなので苦手だけど大好きなお裁縫と、ゆっくり向き合ってミルの巻。

アナログで透明ではっきりとした 「うた」 と 「音」 とが
ナニカを呼び覚ますのカシラ。 ナニカって何? は、まだ答えが出ないふう。

家庭科は2でしたが、三時間もあればナニカができます。
まさに 「ナニカって何?」 の意味不明なものを作っては
ゴミにできないゴミノヨウナモノが増えていく。

  ソレハキット、ワタシノ心ノ毛玉。

掃除をする度にあちこちから出てくる
「出来上がったのかすら不明なナニカ」。
他のことはなんでもちゃんと思い出せるのに
なんの時に作ったものかまるで思い出せない。

  都合ノイイワタシノ脳ミソ。

忘却は、神が与えたもうた最大の力也。
言葉はまた、力也。
この脳みそを作るのに貢献してくれた 全ての要因に感謝を。


タテタカコさんのうたは
「歌」 「唄」 「詩」 でなく 「うた」 と書きたい。
わたしはそんなことにコダワるヒト。 
これでいいのダ。 きっといいのダ。



懐かしい人を想う時は、このうた。
<君は今> You Tube Go Go!!



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わたしはわたし

古巣のバックアップをしていると、自分の過去記事を読者として読むことにもなります。

よくも毎日くぅだらないことを考えているもんだと、自分でも笑っちゃいますが
たまーにクソ真面目なことをガツッと書いています。両極端というか、アホ7割:ド真面目3割・・・
て、七三ワケ・・・根は生真面目なのでしょうか・・・自身がなくなってきたゾ(笑)


勉強も努力も根性をだすのも好きでした。
そういう時代に生まれ育ちました。

でも、ガリベンとかマジメンボウとか言われるのはとても嫌で
半端なくふざけてしまうのは幼少からのクセです。
完全な褒め言葉の時ほど壊れました。困った子どもでした。

人間て変わらないな。

子どもの頃から、わたしはわたし。
ブログの中でも、わたしはわたし。

成長や進化とは別の意味で、人って変わらないものだと、いつも思います。





今、愉しくお喋りしてくださるどなたにも読まれていないであろう過去記事を
ちょっとずつ紹介しよう・・・なんて試みを今日から初めてみました。

アド畑のわたし
発注があってこそ書けるわたし

書きたいことの軸は、極々初期に書ききってしまっているようでもあります。


だがしかし、駄菓子菓子、横山ヤスシ。
人の知恵の泉は枯れることがナーイ♪ (多分)

昨日ね、知る人ぞ知る【ゲスブ☆ゲロ友の会】にて、某方に大変に褒められました。
わたし、また、金言を吐いてしまったようです。 (ほんとかっ)


わたしの耳と、タラオのことから・・・ある方と長い愉しい会話が続いています。

同じ書庫内の【母がキレた日、わたしが泣いた日 】をご紹介しつつ
http://onamomitei.blog.shinobi.jp/Entry/93/
何故、学校にいくのか・・・と言うことを考えまして・・・

ゲスブゲロ友さん(どういう呼び名だヨ!)のコメントは省き
わたしのコメントを紹介してみたいと思います。「続きを読む」からどうぞ。 
(って、ここまでで充分長いでございますね。ぶほほほ)

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オナモミの成分表

【主成分】
お笑い(母方の血)+生真面目(父方の血)+ニコチン+珈琲

【添加成分 ※天然由来成分のみを添加しております】
猫やちっちゃいもの+本+音楽

【スペシャルスパイス】
人の波+仕事


でしょウか?・・・と、前の記事のリコメをしていて思いました。ふふふ。


わたしは「 白黒ハッキリしてるね 」とよく言われます。

竹を割ったような人…と言われることもあれば
ドライな人ね…と言われることもあります。
性格は・・・キツイ方だと思います・・・ヨ(^m^)

でも、総合的な人物評価は概ね「明るい」か「優しい」なんです。
キツクて優しいって、自分でもよくわからない評価だなァって思っていましたが
歳をとる中で、そう言ってくれる意味がわかったような気がします。


わたし、人の思考を殆ど否定しないんです。
否定しないフリではなく「あ、それもありだよネ」と心から思う。
否定しない=かなりの肯定=受け入れ=優しいふう・・・と、なるふう。
う・・・ラッキーな評価・・・でせウかっ?

だって、否定する必要がないんですもの。

AとB、どっちが好きか、と聞かれたら、迷わず「わたしはBが好き」と言う。
こういうところは白黒ハッキリ。
で、「Aがいい」と言った人に「Aなんて最低!Bがいい」
・・・と言うことは、まずないのでアリマス。(ディベート等の思考遊びの時は別ですヨ)

Aがいいと言う理由を聞いて「ふーん、Aもいいネ♪」と言いつつ
Bを選ぶ・・・わたしはそんな人です。
「Aがダメor嫌い・・・ではない=Aを好きな人の仲間」ってことで
だから優しく感じる・・・ということです・・・ね。ふふーん、ナルホド!


うん、確かに、意地悪ではナイな、わたし(^m^)

ちょっと違うからって、いちいち否定するのはツマンナイ~と思う。
理解しようと思ってお話を聞くと、大概のことが「なるほど~♪」となる。
趣があったり、面白かったり、びっくりしたりの「なるほど~♪」がある。
中でも一番愉しいのは「一緒一緒~♪」。
この「聞いて、接点をみつける」というのはフネモドキんちの血

対極に「斜めにモノを見てみる」というへそ曲がり的な視点があり
ひとつ聞いても、真正面から「ハァ左様ですか♪」とは思わない。
その言を、前後左右上下・・・四方八方から転がしてこっそり考えてます。
その結果「なるほど~」とは結局なるのですが
このへそ曲がり的視点は、ナミヘイんちの血

姉・弟も、成分配合は違うけど、思考は基本的に似ています。
で、三人の中ではナミヘイ寄りなのがわたしなのかな。
あいりゃぶなものってばタバコと珈琲だけど
タバコも珈琲も、一時仕事にしていた音楽も、ナミヘイの添加成分です。


わたしにとって一番大切なモノは、問答無用で家族。

空気のように、水のように、いつもそこにアルモノ。
増えたり減ったり・・・でもいつもそこにいる、家族。一緒にいるイキモノたち。
笑ったり、笑ったり、笑ったり、時に泣いたり怒ったり哀しんだり。

わたしの思考の根っこは、全て家族からできています。
だから【ほんとの主成分=家族】 ・・・当たり前ですけどネ(^m^)
父も母もいなけりゃ、わたしは今、ここにはイマセン♪ まず生命として・・・


家族を大切に想い、視界に入れてる人との会話は、いつだって愉しい。

今日、新しい言葉を作りましたヨ(既にあったりして?)
嬉喜楽愉悦。キキラクユエツ。
家族といると、家族を想うと、こんな漢字が浮かんできました。

   SPINさんは、お父さんを思って、タバコをやめた。
   わたしは、ナミヘイと考えて、美味しくタバコを吸うことにした。

結果は違うけど、考えてることは同じな気がします。
わかりやすい両極端のようで、根っこは一緒♪
気分は「ハァ~、どっぺる、どっぺる~♪」。

あいりゃぶ、あいりゃぶ、かぁぞくゥ♪うぃりゃぶ、うぃりゃぶ、かぁぞくゥ♪


P.S..................................................................................................................................................................................
家族を激しく憎む・・・これもきっと、ひとつの家族愛。
その他の約60億のモノとは、どうしても思えない。気になって縛られて仕方がない。
愛あればこそですよ。どうでもいいモノは、憎むことすらできないものです。
理解して尚、好きじゃないとしても、それはアリ。今の「その人」がある、揺るぎのない、根っこ。



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マンナカジージョ

 何度か記事に書いていますが、わたしは次女です。
 女・女・男の、次女。わたしの親友の多くもこのポジション。
 名づけて「マンナカジージョ」。真ん中次女は…辛いヨ?!





生まれ来る子の性別が特定できなかったあの頃
男子誕生が望まれていたあの頃
願いとは別に女児が誕生しても皆が喜び、口を揃えてこう言ったものだ。
「一姫二太郎だね!最初の子は女の子がいいよ!次は男の子だね!」

   残念ながら、生まれたのはまた女。
   長女誕生の時より、明らかに少ない、お祝いの品々と写真。

長女のモジリのような名を貰い「末っ子」として一応可愛がられるのも束の間
待望の「本当の末っ子」に「長男」が誕生したら、その扱いはジ・エンド。


大きい順・小さい順・大事な順…どの順番に並べても、中途半端なポジション。
「末っ子長男」を弟に持つどの次女も、悩んだ時期がある。

一番になろうとすると、外野がうるさい。「順番を守りなさい!」
大きいお菓子を食べたい…そんな小さな願いが、けして叶わない。
些細なことで、とても悲しいキモチになった。

   親と手を繋ぐような時、母は弟の手を握る。
   姉は、ぴょんと跳ねて、父の手を握りにいく。
   ほんとうはもうひとつずつ手があっても
   わたしの分の手はないように、いつも、思えた。

ワタシハイチバンニナッチャイケナイノ?
ナンデワタシガオトウトジャナカッタンダロウ?
ニバンメニウンデナンテ、タノンデナイ。

写真の中の小さなわたしは
弟が生まれた時を境に、きりっとした顔になって、写っている。


 末っ子長男を持つ次女は、男っぽい子が多い。
 女扱いされることを極端に嫌う。ただ、性同一性障害とは次元が異なる。

「弟だったらもっと可愛がられるかなァ」。根っこはソコだ。ある意味、その程度だ。

男勝りでは納得しない。
誰よりも男らしくありたいと願い、次々と危険なことに挑み怪我もする。
怪我は勇気ある男の子の勲章であり、誰よりも多くの勲章が欲しいのだ。
「危ないことばっかりして!」と叱られるのも
本当は痛いのに平気なフリをするのも、全てが勲章。
怪我をした程度で泣くヤツは、真ん中次女には、いない。
『弟越え』には、男の闘いで勝つことが必須なのだ。


幸いなことに…と言うべきか。


わたしの弟は、とても体が弱かった。
一族の「待望の長男」として期待された、どのこともできない、とてもか弱い子だった。

   無事に大きくなって欲しい。少しでも元気でいて欲しい。

両親の願いは、同じく体が弱かった姉のいたわりは
自然、わたしの願いとなりいたわりとなった。
優しい姉は「姉」であり、喧嘩が強く活発なわたしは
か弱い弟の「兄的存在」となった。

兄的存在…かなりイイトコロにつけている。大変に満足。
熱で顔を赤くして寝てばかりいる弟が心配でたまらなかった。

兄は、弟の心配をするものだ。弱きを助く、それが兄なのだ。


 さらに幸いなことに。わたしには『育ての伯母夫婦』という存在があった。

わたしを生んですぐに母は盲腸に罹り、引き続き入院していた。
その後の体の回復も思わしくなく、姉もまだ小さかった。
そのためわたしは、長いこと子どものいない伯母夫婦に預けられていたのだ。

子どもが欲しくてたまらなかった伯母夫婦にとって、わたしは「特別な子ども」となり
姉や弟が長期にわたって寝込む度に、夏休み等の長期休暇の度に
伯母の家で「ひとりっ子」になった。


ここにいる時、わたしは次女の呪縛の『圏外』にいた。


常にまっすぐにわたしを見る瞳があり、何をしても褒められた。
わたしはわたしで『良い子』なのを認識できる快感。
さよならを言う時はいつも「次に来る時はうちの子になりな」と伯父は言った。
わたしはいつも「お母さんがいいって言ったらね」と答えて手を振った。

言葉で、態度で、伯母も伯父も
いつでもわたしが「特別な子」であることを伝えてくれた。
妹である母の名前の横に「みなさんへ」と添えた葉書とは別に
「オナモミちゃんへ」という葉書が、必ず、別に届いたものだった。
伯父からは、折々にプレゼントも届いた。
気にしないで、ちょっと嬉しく学校で使えるものが。


サイショカラ、オバサンチニウマレテタラ、ドウダッタカナ?
いつも考えたことだったが…どう考えても、しっくりこなかった。

   伯母に比べてちょっとマヌケな母が「叔母である」という状況。
   父が血の繋がっていない「小父さんである」という状況。
   姉と弟が「体の弱い従姉弟」という状況。

大きなポイントは、伯父さんと父の違いなのだろう。
伯父さんは、わたしの父となるには生真面目すぎる…そんなふうに、今も思う。
要は、わたしと父は、他人となるにはあまりにも似ているのだ。


 六年生の夏休みに、決定的瞬間がやってきた。

いつもとは違う真面目な調子で、伯父が「中学からこっちで暮らさないか」と言ったのだ。
わたしが困った様子を見せると
「お父さんとお母さんに、本気で言ってもいいかい?」と伯父は聞いた。


うちは確かに、その頃…というかずっと、とても貧乏だった。
病弱で、手間も医療費もかかる姉と弟。そして元気なわたし。
シェークスピアも読破済みの本の虫は、理屈も理論も専売特許。

   ヒトリイナイホウガラクダ
   ワタシハ、チョウジョデモ、チョウナンデモ、ナイ
   イクベキカ・イカヌベキカ

一人っ子の優雅な暮らし。まっすぐにわたしを見つめてくれる瞳。
静かにしていなさい、外で遊んできなさい、二人が寝られないでしょう…そう言われない日々。


「うん、いいよ」と伯父に答えて帰宅すると
狭い台所には、神妙な顔の両親がいた。
伯父は間髪いれずに電話をしていのだ。正式に「養女に下さい」と。

「伯父さんが、養女に下さいって電話をよこしたよ」と切り出した父は
なんと「君の好きなようにしなさい」と言った。

   ヤッパリナ

そう思う間もなく、母が叫んだ。

お父さん、何言ってるのよ!
お腹を痛めた子が、私が生んだ子が、好きにしていいわけないでしょう!
大人になるまでここにいるのが、当たり前でしょうに!
みんな大事な子なんだから!


あまりの剣幕に驚いたのか、父は前言をあっと言うに翻し
「お母さんと話し合いなさい」と言ってテレビをつけ、背を向けた。

父の尊厳のために付け加える。
我が父は、誰に対しても常に無心で向き合う人なのである。
自分の意見を押し付けることがけしてない。まずは当人の意思を素で聞こう…とする人である。
こんな局面であっても、まだ子どものわたしが相手であっても、父は常に変わらない。
その父が、個として折れるのは、母が本気になった「こういう瞬間」だけなのだ。


後から考えれば

   夫婦で話し合ってからにしてくれ…というか
   大人同士でケリをつけてからにしてくれ…というか

なんともマヌケであるけれども。
母の剣幕は、わたしの度肝を抜くのに充分だった。


なんでお父さんとお母さんに聞いてなんて言ったの。
 イラナイトオモッタカラダヨ。

なんでそんなふうに思うの。
 イツモコニクラシイッテイウカラダヨ。

小憎らしいって…賢いって意味に決まってるじゃないの。
 ソンナノコッチハワカンナイヨ。

じゃあ伯母さんとお母さんとどっちが好きなの。
 ソンナノキメラレナイヨ、ドッチモスキダヨ。

なんでよ、お母さん生んだのよ、どうしてよ。
 デモオバサンモソダテテクレタカラ。

あんたはうちの子なのよ、誰にもあげたりしないんだから。
 フーンソウナンダ、シラナカッタヨ。

なんで知らないの!大事なんだよ!ほんとにバカな子だね!

母はわたしの頭をグーでぶった。


「バカはお母さんだよ。大事なら大事ってちゃんと言わなきゃ、わかんないよ」
と言ったら母は泣き、散々お世話をかけたことも忘れ
「もう伯母さんちに泊まりにいかせないから!」とのたまった。
「約束だよ!大人になるまで、行かせないからね!」

このあとは普通の親子喧嘩に発展し、業を煮やした父が
母を「もうやめろ!」と叱り、例によって生意気を言い過ぎたわたしは
お尻にバンバンバン!と、三連発を喰らってシャンシャン。
我が家では、過ぎたことをグダグだ言うのはご法度中のご法度なのである。


後年伯母は「末っ子精神発揮して、お母さんたら~」と言ったが
かなりの修羅場だった…らしい。大人的にも。
わたしは約束などしなかったが、母の執念は恐ろしく
冬休みには、本当に頑として、伯母の家に行かせてはくれなかった。


わたしは「うちの子」のまま中学生となり、部活三昧となり
部活の休みは一年に三日しかなく、行きたくても行けなくなった。

中三の夏休みはトラウマのアメリカ滞在で行けず
受験勉強をしなかったとは言え、さすがに冬休みは行く気になれず
高校の三年間は、まさに三が日のみ休みの勢いで部活三昧。
早々に就職を決め、三年次の夏休みは我が母校の伝統、バンドの練習三昧と
再びアメリカの伯母の家へリベンジである。
アメリカにはまたしても敗北した。
日本に生まれてよかった…アイラブ日本…を実感することになる。

本当に六年間、伯母の家には泊まりにいけなかった。
偶然にも親戚間に全く冠婚葬祭がなく、顔を合わせる機会すらなかった。


 葉書が来る度に、母に隠れてこっそり電話をしたわたしが
再び伯母の家に泊まりに行けたのは、社会人になって初めての給料を貰ってからのことだった。

母はとても嫌な顔をしたが「大人になるまでって言ったよ」と振り切って泊まりに行った。
伯父も伯母もとても喜んでくれ、わたしがプレゼントした猫の置時計は、今も現役だ。


結婚した時、両親の座る位置には伯母夫婦に座ってもらった。
二組の実の両親は、新郎新婦と共に雛壇に座ってもらった。
残念ながら?末期癌の舅の介護をし、看取った後に離婚したが。

離婚から1年経ってから泊まりに行った時、伯父はこう言った。
「あの時うちの子になってたら、苦労させないですんだのかなぁ」


「いや、同じじゃない?わたしはわたしだからさ。誰の言うことも、聞かないさ」


「困った時はこっちにも帰ってくるのよ」と言う伯母に、わたしは続けた。
「困ったことなんて滅多にないさ♪強く育ったからね。
それに勝手に帰ってくるよ。どっちもわたしの家だから」
二人とも涙ぐんでしまって「立派になったなァ。誰の子かなァ」と伯父。
「みんなの子なんじゃないの」とわたし。



 六年間の空白の、罪滅ぼしは、できただろうか。いやいや、これからだ。
 母が止めても会えなくても、変わらぬ愛を注いでくれた二人に返したいキモチがたくさんあるのだ。


あの日あの時にタラレバはない。


母が「あげる」と言ったなら、わたしは泣いて「あげないで」と言ったろう。
だからこそ、無償の愛をくれた伯母と伯父の、自慢の姪でありたいのだ。
娘同然の姪でありたいのだ。


今わたしには、ヒトシの両親とあわせ、六人の親がいる。
へこたれている暇など、ない。
全員を笑わすだけで、まんべんなく『回遊』するだけで
とてもパワーが要るのだから。


生まれたことに、うちの子であることに、心からの感謝を。


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・・・≫≫≫≫≫

おきねこのヒロ

今日の【Pick up the old】は、2007/9/8(土) 午前 3:44の記事。
大好きだけど大嫌いな本「おきねこのヒロ」と
わたしの最初の猫とらちゃんのお話しです。
高度成長期の匂いがまだ残っていたあの頃
たくさんの大人とたくさんの子どもが経験した、哀しい記憶。



連日、猫写真を連投していました。
minichanさんから「ねこちゃんを愛する気持ちが熱い」とコメントを頂きました。

そう、とっても好きです。大事な子たちです。

でも、これは、社宅へ引っ越した時の
わたしたちの「愚行」の反省なのだと思っています。
誇ることのできない、哀しい想い出が、その根っこにあるのです。



わたしの初めての猫「とらちゃん」は、大きくなってから拾った猫でした。
寿実ちゃんやおちゃびんのように大きくて優しくて
小さな子どもだったわたしが抱きしめても何をしても笑って遊んでくれる
素敵な子でした。

もう、かなり歳をとった捨て猫だったとらちゃん。

道路で遊んでくれて、あんまりにも可愛くて優しくて
連れて帰る~!一緒に住む~!と
姉と二人で駄々をこねたら、自分でついてきたのです。
遊びながら愉しく帰った散歩の帰り道のことを、今でもよく覚えています。


大人だし、野良も相当長いようだし、自分で出ていってしまうかも…
そんな母の「期待」は裏切られ
我が家もわたしたちも気に入ってくれたとらちゃんは、家族の一員になりました。
カナリヤのピーちゃんを捕ってしまったりもしましたが
怒るおばあちゃんを見ても、とらちゃんが悪いとは思えなかったのでした。
(食物連鎖という言葉は、この時母に教えてもらいました。)


社宅に引っ越す時は、とっても嬉しかった。
東京大空襲でも焼けなかった古い家は、広くて住み心地はよかったけれど
小さな子には暗くて怖くもあったからです。


引越しの日、わたしは育ての伯母の膝で車に揺られて行きました。
姉は父の隣に。
母は、まもなく生まれる弟がお腹にいて、誰も抱けなかったのです。

わたしの膝には、十姉妹たちの入った鳥かごがありました。
「とらちゃんは車に乗らないの?」と聞くと「あとの車でくるからね」と言われました。


引越し先についても、とらちゃんはいませんでした。
「とらちゃんは?」と聞くと、明日来るよと言われました。

毎日毎日「とらちゃんは?」と聞きました。
「いつくるの?」「いつになったらくるの?」と、いつまでも聞きました。


とうとう母が言いました。
「さとるちゃんちにあげてきたの。猫は団地には住めないのよ」


わたしは泣きました。
死ぬほど泣きました。

涙は枯れるということを知りました。
涙が枯れたら、声だけで、声を限りに泣きました。
声が枯れても泣き続けました。

おろおろと慰め続ける母に、わたしの怒りと悲しみは爆発しました。
「とらちゃんだって家族なのに!お母さんなんか大ッ嫌いだよ!死んじゃえ!」

母も泣きました。
母を泣かせたわたしは、父にお尻をぶたれました。
ぶたれたことで泣きはしませんでした。わたしは、悪くない、そう思ったから。
子どもが泣くのは、悲しい時と通じない悔しさを感じた時だけ。
子どもはまだ、嬉し涙を、知らない。


悲しみ続けてふてくされたわたしに
母が本を買ってきました。
表紙に、猫の絵が描いてある本でした。
猫の絵を見るだけで、また涙が出ました。

飴谷友長(あめやともなが)作・金の星社刊の「おきねこのヒロ」という本でした。

引越しでおいてゆかれた子猫のヒロが
それを受け入れ、いつしかたくましく成長していく…というお話でした。
「ぼくはすてねこじゃない、おきねこなんだよ」と
先輩の捨て猫に、幼いヒロが言うのです。おきねことして生きていくヒロ。


でも、とらちゃんは、ヒロとは違う
そう思いました。

   「ヒロはこどもだけど、とらちゃんはおとなだったんだもん。
   もうせいちょうなんか、しないんだよ。」

ルビつきの本で、既にシェークスピア全集を読んでいたわたしは、理屈屋でした。

とらちゃんを連れてこれなかったわたしはなんて悪いヤツなんだ、と思いました。
車に乗る時、十姉妹を抱いて、とらちゃんを抱かなかった自分を呪いました。
たくましくなっても、ヒロの寂しい気持ちは癒えなかったことが、とても悲しかった。

それでも、とらちゃんとヒロの心を二重映しにするこの本は
わたしの心を捉えて放すことがなく
悲しくなるのはわかっていても、何度も何度も手に取りました。
読む度に泣きました。
ヒロのために泣いてるふりをした方が、母にはいいような気もしていました。


あんまり悲しむわたしたちを、母は高田馬場に連れて行きました。
さとるちゃんの家にいるとらちゃんに、会いに行ったのです。
生まれたばかりの弟をおんぶして、まだ小さいわたしたちを手に引いて。

でも、とらちゃんは、わたしたちに抱かせてはくれませんでした。
おいていったわたしたちのことは、もう嫌いになってしまったのです。
フーッと唸って、尻尾の毛を逆立てて、いなくなってしまいました。


落胆したわたしたちは電車を乗り過ごしてしまい、帰りは遅くなりました。
まだ舗装もされておらず電灯もない真っ暗な帰り道はとても怖くて
口もきかずに、手をつないで、他に誰もいない道をとぼとぼと。

わたしたちは、とらちゃんのことを口にしなくなりました。
笑っているとらちゃんと、毛を逆立てた怖い顔のとらちゃん
そのどちらも、それぞれの、胸の奥底に仕舞って。


半年ぐらいして、さとるちゃんのおばさんから手紙が来ました。
とらちゃんは家出をしてしまった、と、書いてありました。
何度探しても、みつからなかった、と、ありました。


わたしはまた、声を限りに泣きました。


わたしは5歳でした。





虹の橋のたもと…ペット好きには有名なこのお話と、ちょっと似ていて違う話を
カナリアのピーちゃん事件で怒ったおばあちゃん(父方の祖母)の法要で
お坊様から伺ったことがあります。

   動物には悪意がないから、必ず天国にいるのですよ って。
   魂になると、魂でお話するので
   大好きだった生き物たちともお話ができます って。
   魂になると、魂の姿になるので、お互いが必ずわかりますって。
   愛した魂たちは、いつでも傍で見守ってくれているから
   馬や牛の送りも迎えもいりません って。
   しかし人は、よい人でなければ、天国に行くことはできません って。
   赦すこと、慈しむこと、考えることが日々大切なのですよ って。
   でも、考えただけではダメなのです
   行動して、言葉にして、初めて意味を持つのですよ って。

このお話を聞いて、わたしは死ぬことが怖くなくなりました。愉しみにさえなりました。
特定の宗教はどれも信じないのに、このお坊様のお話は心から信じました。


存分に生き、畳の上で笑って死にたいものだと、いつもいつも思っています。


もしもわたしが天国に逝けたとしたら…
とらちゃんは、わたしに会ってくれるでしょうか。
わたしとお話してくれるでしょうか。




2008年10月8日追記

逆毛を立てたとらちゃんと今生の別れをしたあと、わたしは5歳になりました。
記事の中に、4歳のわたしのこんな言葉があります。
「ヒロはこどもだけど、とらちゃんはおとなだったんだもん。もうせいちょうなんか、しないんだよ。」

100人ほどもいる近くに住んでいる親戚の中で、圧倒的オチビさんだった当時のわたしには
大人というものが、守ってくれるモノであると同時に不変で頑ななモノにも見えていた・・・
ということでしょう。なんて小憎らしい子どもだったことでしょう。うふふ。
よく言われたこの「小憎らしい子」という言葉は、わたしの「もうひとつの根っこ」になるのですが・・・
今は、大人も「成長とは言えなくても、進化するモノ」・・・なんてふうに思っています。

とらちゃんとの悲しい別れは、1970年代のことでした。
三世代同居が当たり前だった「それまでの暮らし」が、日本中で変わり始めた時代でした。
長男の嫁であった母には、けして愉しい場所ではなかった父の家。嫁ぐ前の叔母たちがいた家。
そこから出て行く時、猫を置いていくのは、まだ「当たり前」のことでした。
猫は家につく・・・と信じられていたのです。

とらちゃんを置いてくることは、戦時中にも猫を手放さなかった母にとっても、辛いことだったのです。


同 17:00 追記の追記

いつか何かがみつかるかも・・・と、場当たり的に始めたわたしのブログ。
これは記念的記事かもしれません。
このあとさらに記憶が開かれ、なんでシェークスピアなんかを読んでいたかに繋がり
英語とアメリカの記憶を挟んで「マンナカジージョ」に記憶の扉が開いていきました・・・。
(これはまだどれもバックアップしておりません~。ふふふ。)

どれも「わたしがわたしであるがための大切な根っこ」なのに
都合よく封印されていた記憶が次々と開いていく。
よく知った現実の知人では開き得ない扉が開く。
これがブログの面白さなのかもしれないと、この時思いました。

この記事を書いた時、温度も、匂いも、感触も、いろんなものが蘇ってきました。
帰りに、滅多に買ってもらえない明治の筒入りのマーブルチョコレートを買ってもらって
シャカシャカしながら帰ったことまで思い出しました。
その時もとらちゃんは、足元でちゃんと待っていたことも。
お菓子屋のおばあちゃんに「猫ちゃんも一緒にお買い物かい」と聞かれ
「今日からうちの子になるんだよ」と得意げに答えたことも。

本文に加筆をしつつ・・・二つの想い出の重なる記事を、わたしに似た、どこかの、誰かに。


●過去ログより~想い出、猫、本●
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か●の薄いタラオ

髪じゃありません…カゲです(^m^*)

今日は弟のタラオの誕生日。もうけっこういい歳ですが、わたしが実家に帰った時に「●●食べたいなぁ」なんて呟くと黙って買いに行ってくれたりする、相変わらずタラオなヤツです。

ナミヘイとフネモドキは大変子煩悩な夫婦ですが、結婚して10年近く子どもができませんでした。できても流産が続き、もうダメかと思った頃に姉のサザエモドキを無事出産でき、次いでわたし、その四年後にタラオをもうけました。
サザエモドキの時でも当時としては充分高齢出産、タラオの時は超高齢出産。悪阻を抑えるために飲んでいた薬のせいなのかは確定できませんが、タラオは内臓奇形で生まれました。帯に短い腎臓が三つあります。女の多い一族全体にとっても待望の男児だったタラオは…虚弱で泣き虫で。10歳まで生きられないと病院で連呼され、いつ死んじゃうかと子ども心に恐怖でした。でも、180cm近くまで大きくなりましたし、元気にやってます。
相変わらず風邪はひきやすくてぼーっとしたヤツですが…今までただの一度も!家族に暴言を吐いたことがありません。いつもにっこり、まさにタラオ。躁病的明るさに満ちた我が家ではカゲの薄いタラオですが、外では結構しゃきしゃきやってて、リーダー格だったりするようです(^m^*)
いろんな病気にかかっては入退院を繰り返し、熱が続くせいで難聴気味で、言葉も遅かった。小学校低学年の頃まで耳はあんまり聞こえなかったみたいです。宇津救命丸必携の短気な子どもだったわたしは、その「あんまり聞こえない」ということが理解できず、呼んでも振り向かないタラオをぶって泣かしたりして、とっても悪いお姉ちゃんでした。
  
2737d374.JPG  大人になってから…
  お小遣いをいっぱいあげて…
  罪滅ぼしをしました…(=´▽`)
 
  運動神経ゼロ~で、男の子が生まれたら一緒に
  野球やテニスをやるのを楽しみにしていたナミヘイには
  がっくりな子でしたが、本人だって望んで長男に生まれたわけでなし…
  こんだけうっさい姉ちゃんが二匹もいたら
  タラオはそれだけでも大変だぁね。申し訳にゃい…(=´▽`)
  みんなでやいのやいの言って可哀想なことしちゃったなぁ…
  と思ったりして。「謝るから…ポテチ買ってきて~♪」

  カゲは薄くても、髪があるなんて…
  我が一族では貴重且つかなり威張れるぞ、タラオ♪



【P.S.】
やっぱりきた…薄毛のトラバ…☆キャパ+.((´艸`*)(*´艸`*)( *´艸`))゚+.キャハ☆
だーかーらー!まだ薄毛にもなってないっつの!カゲは薄いが髪はある!
でも…タラオの将来のためにとっときますかね…(* ̄w ̄)ノ
「気にするのが一番よくないんだからッもうッ黙っててよッ」by タラオ精一杯の暴言

●過去ログより~家族、へっぽこ絵●
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6月8日はロバの日

 ウソです。(*ノノ)キャッ(*ノωノ)キャッ(*ノω・)ゝチラッ(*ノωノ)キャッ(*ノノ)キャッ
  
8353dac1.JPG 本当は
 ◆成層圏発見の日
 ◆鳴門大橋開通記念日
 ◆米の日(毎月)
 です♪→today.hakodate.or.jp/
  
 でも、子どもの頃から
 なぜかロバが大好きだったわたしには
 どうしてもロバの日としか思えません。
  
  
  
 ロバにまつわる思い出話があります。
 長いけれど聞いてくださいな。



■□■□■ ロバはロバなりに♪ ■□■□■


広告代理店時代…ITチーム配属になり、某大手電気メーカーさんを担当させていただいた時のこと。ずっとグループ会社媒体の担当だったわたしは「うっほほーい♪やったぜ、これでおいらも一人前のアドマンだずぇい」な気分でウキウキ。

       が。

お客さまの広報さんの入り口には待合ブースがあり、代理店各社がアポの順番待ちをしています。某ADKさん、某電通さん、某博報堂さん、某東急エージェンシーさん、某、某、某…(全然某じゃない♪)それらの豪華代理店さんが、担当営業を筆頭に、担当部長・担当課長・担当デザイナー・担当コピーライター・担当企画…と「担当行列」を作っているのですが…わたしはと言えば。


       前を向いてー  チラッ(゚ー |´-`;| ー゚)チラッ  誰もおらーん
       後ろ向いてー  チラッ(゚ー |´-`;| ー゚)チラッ  誰もおらーん
       番号かけてー  チラッ(゚ー |´-`;| ー゚)チラッ  いち!オシマイ

… ヤァネ モゥ(*ノω`)ノ


初めてこれを体験した日は「やーん!サラブレッドの中のロバですかぁぁぁぁ~!」
Σ(・ω・ノ)ノエー!Σ(*・ω・*)ウッソー!Σヾ(*・ω・)ノホントー! と思いました。マジで。
老舗総合広告代理店なんて、こんなもんです。みーんな兼任兼任で、あれもこれも…。知ってはいたけれど、体験すると、目で見ると…あまりの大手さんとの違いに、やっぱり驚いたものでした。ココハドコ……ワタシハダレ……の世界。ふふふ。

わたしこの時

  プロデューサー
  クリエイティブディレクター
  プランナー


…なんて名刺に並んでいましたね、確か。

要は、自分一人で、潜って、決めてきて、管理して、考えて、形にする…ってことで、ビジネスの基本【報告・連絡・相談】もなしで猛ダッシュさせられるなんてこともママアリです。ぶほ。「よっ、コマンドー、いってらっしゃい♪」なんて、上司たちは暢気なもんでした。大らか…と言った方が正しいかな。みんな一人社長状態なので、任せることは任せ、信頼しあわないと…てことでした。いつも、目のはじっこで見ていてくれるような安心感も、ちゃんとありました。


◆◇◆
全てを自分でジャッジ&コントロールするって、幸せのようでありマス。

       でも、担当企業はここだけじゃないのですぅ~!
       (お客さまにはここだけしか担当してないフリ)
       とにかく時間はないし、手が足りないのでした。

返事をしつつ相槌を打ちつつ、どうやったら期待に応えられるか…
てか、納期に間に合うのか?
ヽ(,;´゚ω゚ヽ)(/´゚ω゚;,)/タスケテェ~ ← 呼べど叫べどおらひとり♪
脳味噌はグルグル、グルグル…チーン!
「体力のみで猛進あるのみでーす♪」 ← 笑うしかないっ♪ ぶほほほほ♪

最悪なのが、年間広告プランの提案でした。ここが取れないと、売上予測の作りようもないのです。アドマンとしては最大の腕の見せ所ではありますが…我が社のような代理店には最大の難関なのでありました。プランナー以上のプランを、この期間で作れってか~!なのです。しょぼろーん。とは言え、これを出さないと、ロバとしてすら広告奪取のレースに出走させてもらえないので「出せません、出しません」てのはナシなんです。とほほ。

もうほんとにひとり親方状態で、いろんなお客さまの印刷物や広告を管理したり作ったりするので…印刷屋さんまで行って~・刷り出しの確認して持って~・走って確認して貰って~・ようやく印刷入稿…なんてのが終わってから~、スーパープラン作成…ムリッ。(^m^)←笑うところカシラ


◆◇◆
課長はいつも、わたしより早く帰る人でした。無責任なワケではなく、朝イチのアポが大好きな遠~くのお客さまを持っているからなのです。それでもいつも、課長が退社するのは21時は過ぎていましたね。年間プラン作りにPCの前で固まっているわたしにも、声をかけてくれる優しい課長なのでした。

「悪いね、じゃあお先にね、頑張っていいプラン作ってよ♪」

   無理っすよー、勝てないっすよー
   あっし、まるでサラブレッドの中のロバっすよー
   「あー、ロバはね、出走しなくっていいですからー」って感じ
   出さんとダメですかねー 無駄打ちな気がするっすよー


口をとんがらせるわたしに、課長は笑っていいました。

   いいんじゃない、ロバはロバなりで。
   一生懸命サラブレッドに追いつこうとするロバはね
   ちゃーんと見ててもらえるんだから♪
   お客さまは神様だからね。神様の言うことは聞くんだよ。
   これは誰にあげてもいいなぁって仕事をね
   優先して回してくれたりするんだよ。
   そしたら願い事も叶うから…なーんちゃってぇ♪
   じゃあね、あんまり考えこまないで、パパッとね♪
   なるべく徹夜はしないでね~!じゃあお先にね♪


ロバはロバなりに…課長め…
うまいこと言ってるけど「やっぱりロバか~い!」Σ(-`ω´-)
ま、でもロバなりのプランでいいってことか。
負けて勝ちを待つということか。

ちょっと悔しかったので…プランはすぐ作れたけど、ソリティアをして「徹夜のフリ」をしました(´ー`)そして、課長は正しかったのです。確かに、この三ヶ月後に、担当して初めて、B to Bばかりだった我が社としては久しぶりに、B to Cのキャンペーンで500万円のご発注をいただけたのでした。


◆◇◆
某大手代理店さんたちにとっては屁でもない500万円です。発注発注玄孫まで発注で、マージンが10%を切ったりする大手さんには「やらない方がマシ」の範疇かもやしれん。もちろん、老舗弱小なうちの会社でだって、威張れる金額ではありませんでした。でもわたし、この仕事で…利益率45%を…ぶほ。どこも「泣かし」たりしないで、働いた分以上の利益落として、喜んでもらって、さらに自分の会社に45%を…ぶほ。

予算ががっちり決まっている場合、予備費は内製で作っておかないと、トラブルがあった時に赤字になっちゃうんですね(刷りなおしとか)。できるところは徹夜して自分でやって原価を縮小し、予備費を作るんです。別のお客さまのお仕事でトラブルに次ぐトラブルがあって、慌てすぎて…自分で徹夜しすぎちゃったんですよネ。ああ、算数苦手でヨカッタ♪(*ノノ)キャッ(*ノωノ)キャッ(*ノω・)ゝチラッ(*ノωノ)キャッ(*ノノ)キャッ

       貰ってからどうするか考えるのがロバ。
       たまたまのラッキーも褒めて貰えるのがロバ。

500万円のキャンペーン、コンペだったんです。合同オリエンテーションの時、他社の担当者が「なんだよ、500万円か」って顔をしてる中で、わたしだけが超真剣な目をしていた…と、あとでお客さまに言われました。
「同じようなプランだったら、この子に決めようって、最初から思ってたんですよ」って。

       …そりゃ真剣です。「だって初めてだったんですもん!」

初めてだってバレないように、「真剣さが持ち味」みたいに見えるようにだけ…ガンバリマチタ…ふーっ。このお話をしていただいた時、あんまりわたしが嬉しそうなので…と、キャンペーンの他にも、新規のお仕事も頂けました。ひひーん♪(喜びのイナナキ) 課長はすごい!と思いました。


◆◇◆
ロバはロバなりに…いーんじゃないすか♪

綺麗な芝生で美しく疾走するサラブレッドは
長距離走にも畑仕事にも向きません。
ロバはちこちこ、落ちてるものを拾い食いしながら畑を耕し
いつしか大きな畑を作るのでしゅ♪…と信じておこうっと(=´▽`)

そして今はフリー。明らかにロバ以下ふう。
野良猫ふう。~(三ΦωΦ)お気楽極楽でしゅ♪(いいのかっ)


補足☆利益率45%はボッタクリじゃないのデス.................................................
大手さんと違って、○○と○○と○○をやって幾らです…という提案のチャンスはほぼゼロ。「予算は幾らです、○○と○○と○○をやりたい、さらに○○もやりたい、できますか?」というお客さまの申し出に対して、最低利益10%を確保しながら、やれるのか、納期に間に合うか…。「お任せください!」「是非やらせて頂きます!」と言ってから走り、考えるのが常でした。どれだけ制作手法を知っているか、どれだけ優先ルートを持っているか…それが全ての鍵。人望ある制作部長に、そしてたくさんのプロダクションさんに助けられ、できるところは自分でやって原価を削り…算数が苦手なおかげで、気がつけば…利益率…ありすぎました。ぶほ。ここまで頑張らないで、寝ても帰ってもよかったナ(^m^)



P.S.1☆TAMAさんのブログで、チップとデールの「本物」が見られますよ♪
http://blogs.yahoo.co.jp/cendo1yh/20791026.html
本物の方がずぅっと可愛いです(=´m`)(^m^*)

P.S.2☆ナナ公さんのコメで、文字のお絵かきも思い出しました♪
62926e22.JPG ●つるさんはまるまるむし
  ナナ公さんは「つるには」だそうです♪
  ※ナナ公さんは渋谷の妖精さんでしゅ♪
 ●へのへのもへじ
 ●へめへめしこひ
 ●へめへめしつこ
 ハイ…どれもこれも
 可愛いのやら可愛くないのやら…
 (´艸`o)

 狸のさんちゃんなんてのもありましたね♪







●○●2008年7月1日~移植にあたっての追記●○●

わたしは、今もこの「お客さま」だった企業さんが大好きです。
CMを見るたびに嬉しくなり「ちっ、どこが受注したのかな」などと考えます。

弱小広告代理店の営業て、永遠の片思いをする人みたい。
お客さまに愛されたくて、いろんなことを考える。
ドキドキしたりワクワクしたり、つれないそぶりに悲しくなったり。


課長は、このお客さまを10年担当していました。
着かず離れずの片思いから学んだ「恋心」
お客さまとの接し方や動き方を、わたしに伝えてくれました。

今はこの課長も会社を去りました。
もっとお客さまに近い、現場がやりたいから…て。
「課長、わたしたち、とってもよく似てたんですね」ふふふ。

年に二回ほど、このキャンペーンの時のスタッフさんたちと飲み会をします。
もちろん課長も一緒です。
利益を分かち合わなくても集える「何か」は、課長が築いたもの。
いい上司と、いいスタッフさんと、いいお客さまに恵まれて…わたしは幸せ者です。

折々に思い出すイイヅカさんも素敵な上司でしたが
この課長も、忘れられない恩師のひとり。「感謝してますよ、コバヤシさん♪」



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母がキレた日~省略編

★もちろんメロディーは、みなさんよくご存知のあの曲で♪さぁご一緒に!!★


買い物しようと通帳♪ さーがぁしたぁら♪
          ハーソレソレ    ハードーシタドーシタッ
ハンコと♪ 一緒に♪ あげてーたナミぃヘイ♪
    ホッホウ  ナニナニッ        ルルルルルルル  
みんなが笑ってる~♪ 家族は困ってる~♪
         ソリャーワラウヨ    シナナキャオーケイ
るーるるるるっる~♪ きょーも脳天気ぃ~♪
        ホホウホホホホッ    ハーアビバノンノン




てへぇ じゃないよ、てへぇ じゃ!!


と、誰が言っても全く聞ぃちゃあいないナミヘイさんでアリマシタ。
聞ぃちゃいないっちゅーか、懲りないっちゅーか…ぶほほ。


     注1:100万円くれちまった当時はもう少し毛がありました
     注2:つるぴかの爺ですがかなりのハンサムであります
     注3:ラクダシャツは「本物」しか買わない生意気なお洒落野郎です
     注4:ちょっぴり切ない『本編』はこちら



ナニゴトモ、キノモチヨウ、カンガエヨウ。ワラウカドニハフクキタル。
たぶんですが、笑えることは笑い流した方が、毎日が幸せ。



で…実際この話は、我が家では完全に「ネタ」と化しています。
「まぁまぁ、お父さんがいいと仰るんだから…」なんて
町内会のオジサンたちが言おうものなら
「うちはお父さんが一番信用ならないんですよ」と、場合によってはバラすネタ(^m^)
釘さしておかないと、またやりますからネ、この爺さんは(*m*)
それに、落とした…と見せかけて
気のいいナミヘイを不逞な輩から守るのも、家族のツトメであります(^m^)


ナミヘイが手術のために入院した時、生死に関わる病でもないのに
家族はもちろん、孫とマスオ兄まで毎日日参するのには
同室の方たちは羨ましがるやら呆れるやら…「いいご家族ですなぁ、宝ですなぁ」
その賛辞に向ってナミヘイ…
「僕の人生、言うなればまさに丸儲けですよ♪あーっはっはっ」

   やめろ…やめるんだ…ナミヘイっ!!
   姉ちゃんの額に青筋がぁぁぁぁぁッ!! w(*O*)w

「孝行は生きてるうちだよ…でも仕返しも生きてるうちなんだからねーーッ(-△-#)」

サザエ山の勝ち~♪ドンドン 



3d55c6f9.jpg  ≪オマケ☆ピッ君とちっ君≫
  めばちまぐろの夢でもみているのかな。 



  ★つ・い・し・ん★5/10(木)11:20★

  取材・追い込み週間に突入しました。
  (@△@)ゞシャキーンっ
  レス、遅れます。ぺこり~。   



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母がキレた日、わたしが泣いた日

.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚
わたしが子どものころの ちょっぴり長い ほんとうのお話
.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚





   ただいまー

   ただいまー?!
   誰もいないのー?!
   ねぇ ただいまだよー?!


わたしが5年生だった初夏の ある土曜の夕方のことでした。
友だちと遊んで帰ったわたしを
オヤツを前に 母と弟が待っているはずでした。
姉は部活で 父は仕事から帰ったあと PTAに行っていました。

「お父さんが帰る前に帰っておいで」って言われたし
誰もいないなら鍵がかかっているはずだし…おかしいなぁ…


電気がひとつもついていない 誰もいない 2Kの小さな社宅は寂しい。

   台所…いない
   四畳半…いない
   六畳間…いない
   トイレ…いない
   お風呂…開かない!!

よいしょ よいしょ うーん!!


一生懸命押すと 狭いお風呂場に
母と弟が布団を敷いて寝ているのが見えました。

   お母さん どうしたの

   うん ちょっとね だいぶ具合が悪いの

   なんでそんなところで寝てるの? お部屋で寝たら?

   うん お父さん嫌いだからね ここがいいの



いつもは陽気な母。
父の悪口を一度も言ったことのない母。

子ども心にも 何か「悪いこと」があったのはわかりました。



暫くして 陽気な声が階段を登ってきました。
お客人を連れた父です。

   なんだ 電気もつけないで お母さんは?
   お客さん連れて来るって言っといたんだぞー

   あのね 具合が悪いって お風呂場で寝てんの

   そんなことないだろう なんでお風呂場なんだ だいたい



言っていいのかな … でも きっと 言った方がいいんだ。
一緒にいるおじさんは よく知ってるいい人だし 言わないと。

   うんと具合が悪いって お父さん嫌い病なんだって

一緒にいたお客人は「また今度来ますよ」と
明るいご挨拶と共にあっという間に階段を駆け下りて消えました。


さっきまで陽気だった父も
大人しく陽が落ちて真っ暗になった部屋に入り
台所に座り込んで しょんぼりした様子です。

   お茶飲む? ごはんわたしが作る? お粥がいいかな?

   いや もう一回遊びに行っておいで
   お父さんがご飯作っておくから


もう一回って…5時半を過ぎると みんなおうちに帰ってしまう。
でもきっと 行かないといけないんだ。

   じゃあ ご飯できたら ベランダから呼んでね
   ブランコのところで遊んでくるよ



父が呼んだのはいったい何時だったのか…よく覚えていません。

いつも一番早めに家に帰るわたしが一人で遊んでいて
「早くお帰りよ」と声をかけてくれる社宅のおばちゃんも
なぜか誰もいなかったように記憶しています。
姉はいつ帰ったのか 何を食べたのか
その日の晩のことは よく思い出せないのです。



翌日の母は やや元気がないけれど いつも通りの母でした。

町内野球から帰った父は いつもなら
「お茶! 珈琲! ご飯!」と威張っているのに
少し大人しかったような記憶があります。

オヤツの時 母が言いました。

   みんな ちょっと聞いてね
   あのね 前からうち お金ないけど
   ほんとのお金なしになったの
   いろいろ我慢しなくちゃいけないから
   我が儘言わないようにしようね


なんだかよくわからないけど わかりました
そう言うしかありませんでした。



この初夏の土曜日に何があったのかわたしが知ったのは 中2の時のことでした。


進路相談の三者面談で母が

   うちはお金がないので 大学は無理なんです。
   上の子もやれませんし


そう言った日 家に帰ってわたしはキレました。

74598ffegif なんでさ 大学いきたいよ
 じゃあなんで勉強頑張るのさ
 頑張れって言ったのさ
 意味ないじゃん
 なりたいものに
 何にもなれないじゃん


その日の答えは

 大丈夫
 笑顔ひとつで
 世の中渡れるように
 育ててあるから
 (((ご参考記事)))

得意げに申し渡した母は まるで何事もなかったかのように
普通に 晩御飯の準備にとりかかりました。
それも余計に悲しかった。

それこそ「過去の栄光」じゃないけれど 当時勉強は常に学年トップ5。
神童と呼ばれていた当時のわたしでした。
神童たらんと 努力もしていたわたしでした。
愉しい我が家、お金があればもっとシアワセと信じていました。
そのためには、大学は「行かねばならない」と信じていました。
予習・復習なしで(ここが大事っ)成績だして 部活もやって…
頑張ったって褒められたって なんの意味もないじゃんか。


その晩 未来を潰されたような気がして完全にふくれたわたしは
ご飯を食べませんでした。
こういう時母は 無理強いをしないのです。
狭い家の中で喧嘩をするのは 虚しい時間が長引くだけですから。
大食いのわたしのハンストなんて 所詮すぐ終わることも知っているのです。


夜中に 母が二段ベッドの傍に来ました。

   起きてる? おなか空いたでしょ おにぎり食べる?

黙って起き上がっておにぎりを手にとったわたしに
母が問わず語りで話し始めました。

   前にね お母さんお風呂場で寝てたことがあったでしょ
   あの日ね 通帳と印鑑がなくってね ないないって探してて
   お父さんに「知らない?」って聞いたら
   ああ 印鑑ごと なっちゃんちに貸してやったって

   そのちょっと前にね
   お母さんがこつこつ貯めた貯金が100万になってね
   嬉しくってお父さんに見せたのよ
   「これで何かあっても大丈夫ね」って

   貸したって 貸したってさぁ
   返ってくるわけないのよ
   今までだって散々3万だ5万だって貸してて
   返ってきたためしがないんだから
   なっちゃんちさ そのお金で引越しちゃって
   それっきりなのもそういうわけなのよ

   あの100万があったら
   お姉ちゃんだって全部新しいもの買って中学に行けたのに
   我慢させることなんかなかったのに
   あれもできたのにこれもできたのにって…悲しくってねぇ (((ご参考記事)))
   でも喫茶店代ももったいないから 寝てやったのよ

   どうしようもないお父さんだけど
   盗んだわけでもないし お母さんが貯めたってお父さんのお金だし
   人が困ってるのを黙って見てられないのはお父さんのいいところだし
   困ってるフリしてるだけなのを見抜けないのは困るけどね

   あーあの時 100万貯まったって教えなきゃよかった! って思っても
   お母さんもこういう性格だから 嬉しいこと隠しておけないしね
   遅かれ早かれだと思って 諦めることにしたんだけどね

   あんたの気持ちはわかるよ 申し訳ないなって思ってるよ
   でも うちの子なんだもん しょうがないって諦めて
   大人になってから頑張ってくれたら お母さんは嬉しいけど ね



aa7e6696gif わたしは泣きました。

 おにぎりを頬張りながら ハクにおむすびを貰った千のように泣きました。
 とりあえず どうしようもないんだということはわかりました。

でも 父が そんな父でよかったと思いました。
そんなこったろう…とも薄々わかってもいました。
はぁ お母さんは偉いよ 何も言えないよ そう思いました。

狭い家で 一人になれて(弟もいたけれど) ドアが閉まるのは
トイレとお風呂場しかなかった あの初夏の日のことを思いました。
お姉ちゃんはどんな時にこの話を聞いたんだろう そう思いました。




.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚
.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚
ここでわたしの「乳児期・育ての伯母夫婦」が (((ご参考記事)))
わたしの大学までの面倒を見て養女に…という話を本格的に持ち上げ
母と伯母はその後7年にわたって喧嘩をするのですが…それはまた後日。

既に母となった姉は この時のチョイスは
「わたしにさせるべきだった」と言いますが…どうなんでしょうね。
たとえわたしに選択権があったとしても 養女になって大学にいったのか…
正直 今でもわかりません。


バイトをしながら また 一度社会に出てからだって
自力で大学に行かれた方はたくさんいらっしゃいます。
ご両親のいない方 なさぬ仲でご苦労をされた方もたくさんいらっしゃいます。
血の繋がった家族であっても
気持ちの繋がらない寂しい思いをされた方も多い。それも知っています。

それに比べれば…わたしなんて甘い甘い!!
最後の学生生活を謳歌すべく 部活だけを基準に高校を選んでいますし
部活の経験を論文に書いただけで
社会人生活もスタートできてしまいました。(((ご参考記事)))


いつもいつも 数少ないチョイスの中から どっちが愉しいか…
それだけを基準に道を選んできた。ユルユルな人生かもしれない。


でもね よく思うんです。
選べないこと 決まってることも あるんじゃないかって。
それでも 人生ってちゃんと「楽しいの方がちょっと多く」
気持ちに残るように出来てるんじゃないかって。



だって あの時大泣きしたけど やっぱり笑い話ですもん。
そしてわたしの人生は…なかなか愉しいと いつも思っています。

でも 母はこの「ええ話◆おにぎり編」すら 全然覚えてないんですよ。
「毎日どうやって騙そうかって…そればっかりだったからさ♪」

あ~ッ ほんのり ム・カ・つ・く!!


あの日父はきっと 一人で帰れず お客さんを連れてきたんでしょうね。
お客さんの前なら優しくしてくれるかと…。
  
母がキレたのはこれが最初で最後でした…と、言いたいところですが
そうはいかないサザエな我が家。
もっともっとすごいのが この10年ほど後にやってくるのでした。
それもまた 後日あらためて。

今日はここで とっぺんぱらりのぷう。


  
P.S. 18:45...........................................................................................
 わたしが住んでいた地域の大学・短大への進学率は限りなく100%。進学しないのは「よっぽどの不良」か「どうしようもないバカ」という通念の中の出来事でした。
 でも、大学には行かないでよかったかな と、実は思っています。勉強が好きで、出来も先生ウケもよかったわたしにそんな「印籠」を与えたら、鼻持ちならないヤナヤツになっていた可能性ベリービッグ!! です。(期待にお応えし、ルー大柴ふう) そして、今はその脳味噌はどこにもありません…ニューロン死亡?!もし大学に行ってたら…イイヅカさんに教えをこうたあの愛すべき薬品会社にも入社していないはずですし、わたしの人生も人格も、まったく違うものになっていたんでしょうね。…おーコワッ(^m^) というところで、やはり「とっぺんぱらりのぷうのぷうのぷう~。」

【2008.6.19追記】本編は5000文字制限だった為、移植にあたって加筆修正しました。

●過去ログより~記憶の扉、家族●
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